肉体の狡知――三島由紀夫『美徳のよろめき』

鏡子の家』は、読み物としてはそれほど高く評価しない。作者が登場人物に対して明晰すぎ、その宿命に至るまで見通しすぎている、というのが理由である。この小説についての作家の意気込み、同時代評の冷淡さ、三島の作品コーパス全体を見渡しての再評価、についてはwikipediaにも少し詳しく触れられてあるが、そのなかでは、佐伯彰一の評にある、1) この小説の四人の青年は作者の分身めいているが、相互にぶつかりあいなく、2) 作家の内部で閉じており、異質なものに侵入されるようなところがない、という感想に近いものを感じている。

ぶつかりあわないことを相互の同盟にしている連中にぶつかりあえと言うのは酷であるが、それにしても彼らの道筋は上り坂(第一部)と下り坂(第二部)が截然としすぎている。これは思想小説であるが、各人が対話によって思想を表明するというよりは、各人の人生(およびその破局)そのものが一個の思想の表明になっている。そのそれぞれがニヒリズムに対する一つの答えなのである。そしてそれは作者による四通りの答えであり、彼自身が辿りえた(辿りうる)道の一つ一つであるが(とりわけ峻吉の道は、のちの作者の道程に近いように思われる)、あくまで語り手は彼らから遠いところにあり、彼らの個別の行動を鳥瞰している。時には解説者の役割も果たす。

作家が執筆中に『カラマーゾフの兄弟』を意識したかは定かでないが、カラマーゾフに四兄弟があるように、『鏡子の家』の四青年は精神的な兄弟関係にある。夏雄の童貞はアリョーシャの純朴さを思わせはするが、だからといってこの小説にはスメルジャコフ的な人物はいない。そしてドストエフスキーの思想劇にみられるポリフォニー性が、この小説には欠けているように思われる。

三島は先の先、後の後まで見るひとであるが、ここではそれがあまりに明晰すぎる。19世紀の心理小説の方法が採用され、語り手が登場人物のなかに完全に入り込み、かつ自由に離れ、登場人物が見通していないことまで見通している。こういう心理主義を批判したのはサルトルであり、どこかでジュネットも言っていたように、けっきょくはその批判は狭量の謗りを免れないのではあるが、それでもぼく自身はと言えば、やはり心理主義的で、作家が神として登場人物の内面まで見通すような作品に対して、基本的に批判的である。そして『鏡子の家』の同時代的な不評は、それがあまりに見えすぎていることに案外その根があるのであって、時代はむしろ「見えなさ」の側に軍配を挙げたのではないか、それが『太陽の季節』における「だろうか」ではなかったか。

 

そういう意味では、57年に刊行された『美徳のよろめき』も、同種の心理小説の手法によって書かれており、さらに斉藤美奈子は『妊娠小説』のなかで大人の語り手が子供のように稚い人物である節子を観察しているような描写を批判しているのではあるが、それでもこの小説に関して言えば、必ずしも悪い印象は抱いていない。むしろ、十分に三島の傑作と呼べるのではないか。

確かにこの小説のなかで語り手は「知りすぎて」いて、倉越節子すら把握していない不倫の心情を語ってみせているのであるが、ぼくとしては、彼女の不倫する心理の狡知は、補ってあまるほど明敏であると思う。というより、彼女が自己について把握していないとすれば、それは彼女が無意識の活用の仕方を知っているからで、「彼女は知らなかった」というのは、それを知らないことで不倫をより円滑に身を任せてゆくための自己欺瞞の作法であるように思われる。

彼女は自分が、結婚する前に一度だけ口づけしたことがある土屋という男に恋していることに気付いたとき、まず、「道徳的な恋愛、空想上の恋愛」を始めようと決意する。それはつまり、肉体を介さない恋愛であり、土屋が自分に対して恋をしているらしいことのみを滋養にして、ありたけの甘美な空想に酔おうとするものである。彼の実際上の求めについて言うなら、「決して許さなければよいのだ」。

ここにぼくは彼女の狡知をみたいと思う。もっともこの最初の戦略自体が、ひじょうに愚かしいものであることは明らかで、それは間もなく、

許さなければよいのだという、節子が最初に立てた戒律は、しかし時折、根拠の薄弱なものになった。何故ならこの戒律は、もし土屋の心がそれを求めていなければ、忽ち根拠を失うからである。

と書かれることから明らかなように、次第に満足のいかないものになってくるからである。彼女は徐々に土屋に餌をちらつかせざるをえず、それで執心を強めていくのは彼女自身である。ところがこれは彼女の愚かさというよりは、自らを徐々に漸進させ、興奮を高めてゆくための智略であるように思われるのである。智略というよりはそれは、肉体の狡知と言うべきかもしれない。

同様に彼女は、数年ぶりの口づけを土屋と交わしたあとに、「いわれのないさびしさ」から久々に良人と寝たことで妊娠したとき、その口づけから子供ができてしまったかのように感ずるとともに、そこに懲罰的な意味を見出している。

不倫している女性が、何らかの出来事があったときに、それを自己に対する罰や暗示であるととらえる例は、たとえば『ボヴァリー夫人』にも見られて、確か子供が熱を出して倒れたときだと思うが、これを天罰と捉えてボヴァリー夫人は一度不倫から身を引こうとする。

ところが節子のばあいには、ひそかに中絶を果たしたあと、それを自らの果たした犠牲であると考えるにいたり、快楽を見出している。そしてこの「懲罰」はすぐさま報償を要求するようになるのである。

しかしこうして誰にも知られずに終ってしまう筈の沈黙の劇の空しさは、だんだんと節子に何かしら報いをねがう気持を育てた。こんな気持は、時と共に日と共に大きくなった。これだけ苦しんだのだから、どんな歓びも享ける資格があるような気がした。何を望んでいるのかはわからなかった。ただこれだけの犠牲を払って彼女が望むものは、決して罪にはならぬだろうと思われた。

こうして彼女のばあい、懲罰でさえもさらに快楽を屠るための道具になる。そのあいだ、彼女は誰かに相談したり、助けを求めるのでもない。良人も、土屋でさえも、彼女の快楽装置のなかでは本質的に外部にあって、彼女は彼女自身から快楽の源泉を引き出しているように思われる。自分で自分に罠を張っては、それを乗り越え、罰を与えては、それを乗り越える。それは自己自身との格闘である。そしてそれに都合のよいように、良人は寝てばかりの野暮天で、土屋はどうも彼女に興味のないような、不思議な人物である。

 

物語導入の次のエピソードは、この作品全体を語っているようである。

ある日彼女は友だちのあけすけな夫人が、数人の同性の友の前で、世にも天真爛漫な調子で、或る発見を報告するのをきいた。

「あたくし、黒子を発見したのよ。それも大きな黒子を。生れて三十年ものあいだ、自分でちっとも知らなかった黒子を」

夫人は大声でそう言った。ある晩、良人の旅行の留守に、ふとした気まぐれで、彼女は手鏡に移して詳さに調べ、襞のあいだにひっそりと眠っている、黒い木苺のようなそれを発見したのである。

しかし夫人はこんな慎みのない話を、たちまち人生的教訓へ持って行った。

「だから自分を知ってるなんて自惚れちゃだめよ。三十年自分と附合っていても、まだ知らない黒子が出て来たりするんだから」

 『美徳のよろめき』の全体が、この黒子探しなのであって、彼女自身が気付いておりかつ気付いていない(自己欺瞞によって気付かないふりをしている)肉体の狡知の発見の過程なのではないか、とぼくは言いたい。

したがってこの小説は三島の「肉体版、汝自身を知れ」なのであり、精神と肉体との対話が、節子の内部機関において果たされている。その意味で、良人も土屋も外部にいるのである。

そして語り手はどうかと言えば、節子の心情をはっきり知り抜いている語り手も、節子の内部にある対話からは、一歩離れた距離を置いているように思われる。節子自身が語り手に制約されていないのである。語り手の立ち位置から果たしうることはと言えば、彼女の問答をよりよく進めるための産婆としての役割に留まるように思われるのである(そしてこの産婆という語は、ソクラテスを指すだけではなく、節子の実際の妊娠と堕胎との間の文字通りの連関を見出そうとして選ばれた語である)。

節子が自らを覗き込むその妙のゆえにこそ、この小説は心理小説的なはしたなさから逃れているように思われる。

新潮文庫版『堕落論』解説、柄谷行人「坂口安吾とフロイト」

後半、やや奇妙な収録方針。

「今後の寺院生活に対する私考」「FARCEに就て」「文学のふるさと」「日本文化私観」「芸術地に堕つ」「堕落論」「天皇小論」「続堕落論」「特攻隊に捧ぐ」「教祖の文学」「太宰治情死考」「戦争論」「ヨーロッパ的性格、ニッポン的性格」「飛騨・高山の抹殺」「歴史探偵方法論」「道鏡童子」「安吾下田外史」

以上、十七篇。「戦争論」くらいまではわかるが*1、後半、歴史モノ書き(歴史探偵)としての安吾の側面を示す数篇が収められていて、これが非常に奇妙な感じがする。面白くないと言うのではないが、内容としては奇異で、特に「飛騨・高山の抹殺」は<安吾の新日本地理>というシリーズの一つであるが、読みつけない読者には、相当突飛な探偵的論を展開している。

それで解説を読むと、柄谷行人が担当していて、「坂口安吾フロイト」という、大変に難解な解説がある。そしてそこで取り上げられているのは、もっぱらが歴史ものである。

そこで思うのだが、この版は柄谷行人が編纂して、チョイスを担当しているのではないか。もちろん所収の作品をもとに彼が解説を書いたということも考えられなくはないが、それにしてはうまくはまりすぎている、という感じがする。むしろ、この解説のために、後半の数篇は選ばれたというのが説得的である。

だとすれば(別になんの確証もない)、これはあまり健康ではないように思われる。転倒しているではないか。この「安吾フロイト」という解説も、それほどしっくりとくるものではない。

 

まず「歴史探偵方法論」における歴史家=探偵というのが「たんなるアナロジーではない」とされ、ポーが引き合いにだされる。ポーは「モルグ街の殺人事件」で探偵小説を創始しただけでなく、一つの新しい認識論を、新たな哲学を創出しているのである。「だから、」安吾において歴史家=タンテイは、新たな歴史の方法論を意味するのであるとされる。なぜ「だから、」なのか? このことが既にわからない。

そこから柄谷は、安吾の探偵的方法においては精神分析が応用されているが、その事実は言明されてはいないと論を進める。「飛騨・高山の抹殺」で、飛騨については記紀は何も語っていないが、この沈黙こそが疑いを誘うと安吾は書いているが、これが精神分析における否認の方法と近似している、と柄谷は言うのである。そこで、探偵から精神分析に一挙に話が飛ぶが、歴史的に見て、19世紀末の「探偵小説の発展と精神分析の発展には並行性がある」とされ、ホームズとフロイトの同時代性、ラカンによる「盗まれた手紙」セミネールが傍証として挙げられている。

さらに、マルクスの方法もまた、資本主義社会が隠蔽した「歴史的原罪」の究明法であるという意味で、マルクス的歴史家=ホームズ的探偵=フロイト精神分析家が等号で結ばれるに至る。

そして安吾がこのような探偵的方法を行使した理由として、一つの歴史的犯罪があったことが挙げられる。それは天皇ファシズムである。ふつう安吾天皇制批判は、タブーもあって今日それほど表立って取り上げられないが、本書にはわずか2頁の「天皇小論」が収められている。これも解説者の意向ではないかと思われる。

安吾の方法と精神分析の方法のアナロジーをいくつか挙げながら、安吾自身が精神分析には通じていたことが論じられる。「精神病覚え書」のなかで、安吾フロイトを「ダメだ」と言っている。だがそれは安吾が後期フロイトを知らないからで、後期フロイトはむしろ安吾の考えに調和しているのであり、彼らは同じ歩みをたどったのだとされる。

そこから、フロイトの話が始まる。まことに奇妙な「解説」で、フロイトの話は、あくまで解説者が探偵的方法との類似において持ち出したもので、「精神病覚え書」は所収されていないのに、フロイトの話こそ、実は本当にしたい話なのである。

後期フロイトの独創性(そのロマン主義的傾向からの完全な絶縁)は、「死の欲動」という概念の導入である。それは合目的的ではない不快への反復的接近であるため、経験的には理解しえない超越論的な想定とならざるをえない。それゆえそれはカントの「崇高」に似たものともなるが、安吾自身の「風景」(ふるさと)というのも、やはりこの崇高に近い、一般的には不快を掻き立てかねないものである。

なぜ、安吾はそのような「美意識」を抱くに至ったのか? 本書年譜には五才(明治四十四年(1911年))のこととして、次のように書かれている。

三月二十七日、七女千鶴が誕生。四月、鏡淵西堀幼稚園(のち西堀幼稚園と改称。現在は八千代幼稚園)に入園したが、母アサを千鶴に奪われた気持が強く、孤独に苛まれてひとり知らない街をさまよい歩くことが多かった。

柄谷はここで精神分析的な理由(母の不在の克服というfort-daの遊び)を導入して、安吾の風景とは、母の不在という不快を繰り返し喚起するもので、「突き放す」ものとして立ち現われてくる、と説明している。その不快は快を与えるものともなるため、安吾にとって快となる風景であるが、他人にとってはもっぱら不快をしか与えない、殺風景となる。

フロイトは、この「死の欲動」の内攻化を、超自我として考えるようになる。これは以前までの彼が、超自我を社会的規範や「父」の内面化と考えていたのからすれば、「根本的な変更」となる。安吾はこの死の欲動から脱して、「自我の理想的な構成」を果たそうとするが、反復強迫から逃れられないで、しばしば鬱状態に陥ることになる。

東洋大学時代の鬱からの脱出は、ファルス論によってなされる。そこで言われる「肯定」とは、「現状肯定ということとは違う。この肯定は、フロイトが無意識(エス)には否定がない、というのと同じ意味での肯定なのだ」。だが、この時期はまだ「抑圧」の理論の時期に留まっている。再度の鬱病が彼を襲ったとき、克服を見事に示すのは、「イノチガケ」である。キリシタン殉教を描いたこの作品のなかで、殉教者たちは死の欲動に襲われた人々であるが、「穴つるし」による殉教の滑稽化によって、死の欲動は抑制されたのである。

とはいえ、それは「成熟」を意味するものではない。「それは、ある意味で「ファルス」の反復なのだ」。しかしこの時期には、近代文学のジャンル論的制約のなかでファルスを顕揚していた初期とは異なり、「その作品総体がファルス的」と呼びうる位相に至る。だからこそ、安吾の作品において、ジャンルは常に排除されている。「安吾の作品を一冊の本にまとめるとき、このようなジャンル的区別を否定すべきである。そして、それこそが安吾のいう「全的肯定」にほかならない。」

 

……すっかり理路を辿りなおしてみると、論理の飛び方にくらくらしてくるが、そして新潮文庫の解説としては難解すぎるには違いないが、超自我の源泉をめぐるフロイトのなかでの議論の変化や、安吾の「風景」は何に由来するものか、についてなど、やっぱり面白いと考え直さざるをえない。特に、最近「ふるさとに寄せる讃歌」を読み直したいと思っていたから、それを考え直す機会になるかもしれない。

*1:それにしても、どうして「太宰治情死考」であって、「不良少年とキリスト」ではないのかな?

フィフティーズ(2)、『鏡子の家』

作曲家のピエール・ブーレーズが先日世を去った。1925年の生まれ、満90歳の没である。三島由紀夫も同じ、1925年の生まれであるが、70年の没で、満45歳である。ブーレーズと同じ年に生まれながら、実に、半分の歳しか生きていない。一人の人間が45年間を生き、一人の人間が90年を生きる。同じ「一生」と呼ばれるにもかかわらず。これは少し驚くべきことのように思われる。当然のことながら、不公平ではないのか。

とはいえ、自然死ならばいざ知らず、三島由紀夫は自ら死を選び、世を去ったのである。生きていれば、今日この頃に死んだ、ということもありえなくはなかった。そのこともまた、少し驚くべきことのように思われる。

若き天才であった三島は、41年にはすでに「花ざかりの森」を発表している。終戦を迎えたときには、まだ20歳でしかない。49年には成功作『仮面の告白』を、54年には『潮騒』を発表して、後者は(こないだも参照した記録によると)同年のベストセラー第四位となる。56年に『金閣寺』によって美的世界の追求する一方で、翌57年には『美徳のよろめき』という風俗的な傾向の作品を著すという器用さを見せている。この作品も「よろめき族」という流行語を生み、同年のベストセラーの第四位である。この五十年代が、三島のもっとも油の乗った時代であったのかもしれない。

 

彼がその五十年代の決算という意図から発表したのが59年に発表された『鏡子の家』である。舞台は1954年から56年にかけての二年間。50年に始まった朝鮮戦争による特需が前年に終わり、不景気に陥った時期から、再度の好景気に立て直す時期、いわゆる高度成長期の始まりの時期を描いている。鏡子の家は、「おそろしく開放的な家庭で、どことはなしに淫売屋のような感じがある」。良人を追い出して8歳になる娘とともに暮らしている家主の鏡子は、「戦後の時代が培った有毒なもろもろの観念に手放しで犯され」た女である。アナルヒーを常態と思い、不道徳な友人との不道徳な交遊を愛している。

その友人というのが、この小説の主人公となる四人の青年で、最年長27歳の杉本清一郎は、貿易会社のエリート社員、夏雄は才能のある画家、美貌だが怠惰な役者の収、拳闘家の峻吉である。四人は、それぞれ己のうちにニヒリズムを抱えているか、いずれニヒリズムを抱えることになる。それが、戦後、あらゆる価値観念の崩壊を迎えた時代に生きた彼らの宿命である。

清一郎は、己というものを持たないがゆえにこそ、社会の価値に合わせて生き、うまく演じてみせている。夏雄はもっとも調和的な人物であるが、自然と自我との対峙した関係のあいだに、あるとき他者の声が立ち入り、不調を来し、狂気に接近してゆく。収は、自らの華奢な身体のゆえに存在感覚を希薄に感じており、それを克服するためにボディビルに打ち込む。何も考えず行動することだけをモットーとしている峻吉は、あるときその行動が絶たれたとき、「無意味」という敵に囲まれることになる。

 

この小説の、もっとも有名な一節は、壁をめぐる箇所である。彼ら四人は、めいめい何らかの仕方で、壁に直面している。それが「時代の壁であるか、社会の壁であるか」はわからない。それははじめ、本当は存在しなかったはずなのである。戦争によって、すべてが崩壊したとき、若者たちはそこに廃墟しか見ることがなかった。廃墟と瓦礫、そのガラスの反射がもたらす光景は、「美」と呼ばれている。その時期、確かに縋るべきものはなかったが、遮るものも何一つとしてなく、「無限に自由な少年期」があった。それが戦後から54,5年の状況である。

今ただひとつたしかなことは、巨おおきな壁があり、その壁に鼻を突きつけて、四人が立っているということなのである。

『俺はその壁をぶち割ってやるんだ』と峻吉は拳を握って思っていた。

『僕はその壁を鏡に変えてしまうだろう』と収は怠惰な気持ちで思った。

『僕はとにかくその壁に描くんだ。壁が風景や花々の壁画に変わってしまえば』と夏雄は熱烈に考えた。

そして清一郎の考えていたことはこうである。

『俺はその壁になるんだ。俺がその壁自体に化けてしまうのだ。

 この四人は、一つの同盟を結ぶ。それは、お互いのことをお互いに対して率直に打ち明けながら、決して助け合いはしない。お互いの宿命を、苦境に陥りつつも、単独で受け入れてゆこうとする同盟である。彼らはその後別々の道を歩むことになるのであるが、より大きな宿命によって結ばれているように思う。そして、そのいずれものあいだに、三島自身が反映されていると考えることも、まったく誤りではないと思う。

 

三島がこの小説でやろうとしたことは、わかりすぎるくらいわかるような気がする。経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれる56年までを時期として区切ったこの小説のなかで、彼は戦後という廃墟からの復興が、驚くほど素直になされ、しかも何一つ本質的な問題は解決されていないのだということを訴えようとしている。安吾風に言えば、「堕ちる道を堕ちき」っていないにもかかわらず、瓦礫のうえに新たな「復興」の文字を連ねてゆくような。

しかし安吾がその種の堕落に耐え切れないような人間も許容するだけの世相に対する無関心を気質として備えていたのに対して、三島のほうは、そうやって世の中が「良く」なっていくことを放置するには、あまりに世の中に関心がありすぎたのではないかと思う。

それゆえ三島は、この小説のなかで経済成長による世の中の「改善」についていけない人間たちを描く。それでは、彼は単に自分の意に沿わない世に拗ね、自らを川の中に遺棄される赤子に譬えたに過ぎないのか。そうではない。彼が見ていたのは、その時代を不服に思う人間たちが、必ずそれに対して復讐を行う、という反復構造であり、二・二六的なものがどこから生まれてくるか、ということを腹のうちから明かそうとしていたのではないか。戦後という時代の「後」に高度経済成長の時代が来るとすれば、さらにその「後」の低成長の時代がやってくる。そのとき、必ず再び破局がやってくる。清一郎がまさしく「予言」していたように、戦後の後の後に、テロリストたちは十分な力をつけて現れてくる。

時たま鏡子は大袈裟に、一つの時代が終ったと考えることがある。終る筈のない一つの時代が。学校にいたころ、休暇の終るときにはこんな気持がした。充ち足りた休暇の終りというものがあろう筈はない。それは必ず挫折と尽きせぬ不満の裡に終る。――再び真面目な時代が来る。大真面目の、優等生たちの、点取虫たちの陰惨な時代。再び世界に対する全幅的な同意。人間だの、愛だの、希望だの、理想だの、……これらのがらくたな諸々の価値の復活。徹底的な改宗。そして何よりも辛いのは、あれほど愛して来た廃墟を完全に否認すること。目に見える廃墟ばかりか、目に見えない廃墟までも!

『読書の技法』

佐藤優。元外務省局の主任分析官で、鈴木宗男事件に連座して逮捕されるものの、その512日間の拘置所生活のあいだ、「学術書を中心に220冊を読み、抜き書きや思索メモなどを綴った読書ノートを62冊作」り、以後作家に転身、インテリジェンス(諜報部門)から外交関係一般、知的生活術から学生時代以来の関心の神学に至るまで、ひじょうに広範な著作を書き継いできたひとです。

本書は、年間300冊、多いときには500冊を読むという氏が、その読書術について初めて体系的に語ったもの。第一部「本はどう読むか」では、「多読の技法」「熟読の技法」「速読の技法」「読書ノートの作り方」について、第二部「何を読めばいいか」では「教科書と学術参考書を使いこなす」「小説や漫画の読み方」について、第三部「本はいつ、どこで読むか」では「時間を圧縮する技法」について語っています。

大雑把に言って、第一部が読書論概論に当たり、第二部はその応用編です。第二部では実際に彼がどのように本を読み、現代社会の分析に応用しているかを明らかにしているので、彼の思考をトレースしてみたいひとにはお薦めかもしれませんが、飛ばしながら読むのがちょうどよいでしょう。第三部は自らのライフスタイルを中心に、忙しいビジネスパーソン(これが本書の主なターゲット層です)がどう時間をうまく利用して読書するか、について書いている。ここはちゃんと読んでもいいと思いますが、氏の生活リズムは、5時起床で24~26時頃就寝というショートスリーパーのそれですので、自分には合わないと思ったひとは、あくまで他人の生活と思っておけば構いません。

 

そういうわけで、大事なのは第一部。熟読すべき本と、速読すべき本と、超速読すべき本に分けながら、貪欲に情報を摂取しつつも、熟読しうる本については、あくまで誠実な態度を保っているのが好感を持てます。つまり、たとえ年間300冊読むにしても、渾身の熟読をするべき本については、それにしっかり打ち込まなくてはなりません。

読書に慣れている人でも、専門書ならば300ページ程度の本を1か月に3~4冊しか熟読できない。複雑なテーマについて扱っている場合には2冊くらいしか消化できないこともある。重要なのはどうしても読まなくてはならない本を絞り込み、それ以外については速読することである。

でもこれ、切り替えのうまさがあって初めて成り立つことですよね。ぼくも数年前からは新書の類など、30分程度で読める本については速読で済ませるべきと考えていますが(とにかくたくさん本を読まなくてはなりません、これは間違いないことです)、最近自分の読書のクォリティが、熟読のときにも落ちたのではないかと感ずることがあります。速読になれてしまうと、熟読のときにもページを手繰る手が早くなってしまってしまう。ちょっと困ったものです。

そういうわけで、切り替えはぜひしっかりと。だけど、速読でもいいから、手広いジャンルの本を読んだほうがいい。ぼくは昔からショーペンハウアーの『読書について』に呪縛されていて、岩波文庫版のあの本のなかに精神の柔軟さを「発条」に喩えた個所があって(当時この言葉が読めず、辞書を引いたことを覚えています)、あまりに多く読書しすぎて、多くの負荷を掛けすぎた精神は、発条が重みに耐えかねて壊れてしまうように、その躍動を失ってしまう、と書かれています。

以来、読書は魅力であると同時に恐怖でもあり、いまでもそれは変わりません。ですが、読書を恐れていては(本当にひとはしばしば読書を恐れているようです)、自分がいまどこに生きていて、その生が何によって成り立っているのかを知る、歴史的地平を見失ってしまう。『読書の技法』のぼくにとってのメリットは、ショーペンハウアー的呪縛をいくらかなりと解除してくれたことにあると言えそうです。

 

さて、本技法の特筆すべき点を(仔細な熟読法や速読法を除いて)挙げるとすれば、それは、基礎から固めよ(教科書を読め)ということと、現在に繋がるような思考をせよ、の二つになるのではないでしょうか。

たとえば、本を「簡単に読み流せる本」と「そこそこ時間がかかる本」と「ものすごく時間がかかる本」の三種類に分けよというとき、みなさんなら、「ものすごく時間がかかる本」は何だと考えるでしょうか。

きっと、非常に専門的で、応用を極めた学術書、ということになるのではないかと思います。

ところが、氏によれば、「そこそこ時間がかかる本」は標準的な教養書であり、「ものすごく時間がかかる本」は、語学や数学の教科書である、ということになります。

つまり、基礎の基礎、ここさえ固めておけば、応用というのは、その型からある程度類推可能な本だということになる。これは、読書論としては、ひじょうにまっとうで、誠実な態度なのではないかとぼくは思います。じっさい、何の領域においても、学者や著述家たちが現在でもかかずらっているのはきわめて古典的な問題であり、もしその問題に通暁していなければ、たとえば哲学にはとても細分化した問題系が存在しますが、実はそれがごく単純な根っこを持っているということに気付くに至らない。だからやっぱり哲学であればプラトンアリストテレスを読まねばならないのです。

基礎体力が運動能力を決定するように、基礎知力が知的能力を決定する、と言っていいでしょう。

ですから、読み飛ばしてよいですよと書いた第二部でも、氏は「世界史」「日本史」「政治」「経済」「国語」「数学」にカテゴリーして具体的な知の活用法を説いています。これらすべてが中学高校で習うことに基礎を置いているわけですよね。義務教育を修了しているかぎり、我々は最低限の基礎知力を持っているといえる。しかしそれをずっと寝かせていて、使っていない。それをリブートさせるのが、知的な意味での出発点なのです。

そして第二の特筆すべき点は、現在に繋がるような思考をせよ、ということ。

重要なことは、知識の断片ではなく、自分の中にある知識を用いて、現在の出来事を説明できるようになることだ。そうでなくては、本物の知識が身についたとは言えない。

現代のニュースを見ていて、たとえば先日フランスで襲撃事件がありましたが、それに対するフランスの対応の仕方をどう説明すればよいのか。ライシテ(政教分離原則)というものがある。もちろんこれに議論をすべて回収させることは短絡ですが、ライシテにしても、それは教科書レベルのフランス革命の論点をまず把握して、それから20世紀初頭の政教分離法の問題、それから移民問題をめぐってのサルコジ政権の対応や、イスラム・スカーフをめぐって「共和国」の原理が大いに問われたその仕方くらいは把握しておかねば、理解は覚束ないということになりそうです。

これに関しては、まず読書して現実の出来事に対応するというよりも、現実の出来事が起きたときに、その表面的な状況に脊髄反射的に反応するのではなく、その根底にどういう歴史的経緯があるのか、それをその都度掘り下げていくほうが、現代生活者が歴史のなかに入り込む仕方として容易なのではないかと思います。

 

人生の有限さと、読書量の有限さは、うまい折り合いを付けにくいものです。

特に若い頃には、人生の有限さばかり目について、それなのにすぐに忘れられてしまうような読書の経験など、いったい何になるものか、と考えてしまう。それよりも、たくさんの実際上の経験を積み重ねたほうがはるかに有益ではないのか。あるいは、若い頃の読書経験は重要であると説得されても、今度は年を経るにつれて、書物の知識を発揮しうるような場がなくなり(加齢につれてひとはその種の競争から脱落しますから)、再び読書の無意味が目に付くようになってくる。

いったい、我々の人生が有限なものであるなら、この有限な生において、永遠の知なるものに到達することに、如何なる意味があろうか? こういうことをぼくは時折考えますが、それでも本を読むことをやめるわけではありません。

書物や、とりわけ所謂「虚学」的な書物(佐藤氏にとっては神学上の問題)に至上の価値があると言いたいわけではありません。むしろ反対に、書物やそれが与える知識は、生存とのかかわりで言えばもっぱら無意味なものと思います。しかし、生が有限であり、いずれはすべてが無意味の灰のなかに帰してゆくかぎり、この世の中に客観的に意味のあるものがあるとはぼくは思いません。

意味は各人が見つけていくものであるでしょう。そのとき、無意味の極みにあるような書物が、新しい輝きでもって現れてくるのではないでしょうか。人々が有意味であると過信しているような社会的営みに、ぼくは殆ど興味がない。無意味で虚ろなものとして放棄されていて、自分によって意味づけられるのを待っているからこそ、書物との付き合いはやめられないのです。

阿部和重の『アメリカの夜』がどういう感じの小説か

昨日の投稿で、夢(夢よりも仕事について語るほうがもっとマトモだった気がする)がたとえ叶わなくとも、「問題は、むしろ、その夢を諦めたとき、どういう新しい道を選ぶか」、あるいは、どういう気持でその新しい道に向き合うかということが大切ではないか、という旨のことを書いたので、その延長に阿部和重の『アメリカの夜』を読む。

 

夢とその挫折……そこからの再起。この小説がそういう過程を描いているというわけではない。そういうベタな感動を誘うような小説ではまったくない(別種の感動には欠けていない)。この小説は書くことの困難をめぐって展開しており、ひじょうに思弁的な内容を含み、それでなくとも柄谷行人蓮實重彦のような批評筋に対する言外の暗示を含んでいるため、決して単純な語りには回収されない。したがってこの小説を論じるのは、かなり小説を読み慣れ、文脈性の高い説明が可能な人物であることが多い。

が、そういう説明はぼくには手に余る。くわえて、ひじょうに表層的な読み方をすれば(表層批評宣言!)、この小説は、アート系の人間の特別になりたいという自意識が、狂気にまで至るか至らないかにまで肥大してゆくさまを諧謔的に描いた作品であり、相当笑える作品である。そういう単純素朴な読み方を小説は許容している。主人公の中山唯生とはどういう人物か?

中山唯生とは、そんな男である。どんな男なのか。いま目前にあきらかなのは、その男は「特別な存在」などではなく、それを憧れている、その意味ではまことに「普通の人物」であるという、単色で描かれたのっぺらぼうな彼の表情のみだろう。

映画学校に在籍していた唯生は、まずもって「映画のひと」であった。だがそれは彼が「映画の申し子」であるとか、「映画的才能を秘めた存在」だとか、そういうことを意味しているのではない。「だからここでいわれる「映画のひと」という言葉は、たんに「映画好き」であってもかまわないのだろう。」

だが唯生自身は自らを「映画のひと」であると自覚している。つまり彼は、ある程度までは一介の学生以上のものではなかった自らを特別の存在と見做すことの不毛を自覚しながら、それでもいっそう「特別な自分」を確信してしまう、そういう哀しい屈折した自意識の持ち主である。

 

こういう屈折した自意識は、少なからず多くのひとに思い当たることではないかと思う。自分がただの○○ファンであるにすぎないということに気づきつつ、それでもその対象を好きな自分が、じつはその対象のほうから見初められた特別な存在なのではないかという選民思想に目覚めてゆく。

本当を言えば、それでも別に構わないのであるが。たとえば芸術にしても、それがすべて一部の天才によって担われているのではなくて、大半は特別でありたい(ありたかった)ひと、たんにそれが好きなひとによって担われるものである。社会というものは、選ばれた特別な存在よりは、たんに「やりたい」ひとを率先して選んでゆく、そういう風にできているのではないかと思う。その意味で、「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我あり」の弊はむしろ、その芸術は特別な存在によってのみ創作されるという強い神棚意識が、自身の創作をどこまでも先に繰り延べていって、作り手の側に回らないという点にあるようである。所謂批評家ないしそのワナビーがしばしばそうであるように。

 

唯生はと言えば、依然として多くの「天才」たちの姿に自らを似せようとする「模倣のひと」であるにすぎず、その特別さの「しるし」をまず自らに見出そうとする。

たとえば彼はフィリップ・K・ディックの『ヴァリス』の主人公が備えている特別な「しるし」(ある出来事が彼に到来した日付の象徴性など)や、唯生と誕生日が同じジョン・コルトレーンが「神への小さな捧げもの」として創作した『至高の愛』についての解説を寄せ集めながら、自分もまたその種の神秘的な明証に裏付けられた「聖なるもの」と出会うべき存在なのではないかと考えるようになる。

だが自らを狂気にまで到達させることが困難であるように、自らを特別な存在にまで至らしめることが困難であることに彼は気付く。「狂気である」という言明が、その狂気に対するメタ的な意識を可能にして、その症状を客観視する助けとなるように、「特別である」という意識は、その特別さに対する無限の反省性を引き起こして、懐疑を誘ってやまない。「けっきょく、「根拠」ばかり追いもとめてみても、それは口にした瞬間すぐさま形を失い、それ自身として身をささえる柱をもたない、芽を出しては腐ってゆく根でしかない」のだと、彼は考える。

 

それに対して、彼が手に取る『ドン・キホーテ』は、それとは別の道を彼に示す。ドン・キホーテは言わずと知れた、騎士道小説を模倣しているうちに小説の世界に入り込み、狂気のひとにまで至る人物であるが、この小説を彼は「倫理の書であり啓示だ」と受け取る。

特別さを求めながらも自分が他人の物真似でしかないということに怯えるよりも、模倣を突き詰めた挙句に狂気に到達するという道を提示されることのほうが、はるかに彼自身の性分に合っていたように思われるからである。

「特別」であることの条件をどの程度おのれが備えているのかを捜し出すのではなく、すでに「特別な存在」としてあるものを徹底して模倣すること。やはり、それこそが自分を「気違い」へ、または「どれとも似ていないもの」へ、あるいは「差異」へ、さらには「単独者」へ、つまり「特別な存在」とよばれる山脈の頂点へと辿り着かせてくれるのではないか。

こうして『ドン・キホーテ』は模倣の徹底がオリジナリティに通じるという道を示す。しかしなぜこの書は「倫理の書」であるとまで言われるのか。それは、一方には模倣をつきつめて狂気にまで至るドン・キホーテがいるのに対して、それへの懐疑をつねに突きつけるサンチョ・パンサという存在が他方にあるからである。両者は各々、特別さと日常性とを代表していると言える。

特別さというものをおよそもたないサンチョ・パンサが、ドン・キホーテと「しっかりとかみあう」瞬間、それはドン・キホーテの死の瞬間である。彼はそこでそれまでの特別さから日常的な世界へと回帰してゆき、自分が騎士ではなかったことを認めるに至る。特別さに対する英雄的な邁進が、終局的には日常性の側に回帰するということを作品全体において証言している、そのような点において、『ドン・キホーテ』は倫理的なのである。

倫理、それは「特別」であることから離れて、「日常性」の側へと赴くものに必要とされる「死」の覚悟である。

その死とは、文字どおりに生命の途絶えばかりを意味するわけではない、いわば「実存的」な問題にかかわる、あらゆる形式化の果てに残されたものを最終的に放棄した瞬間にしか獲得することのできない、見るものすべてが未知である、「人間」から生まれかわった赤子のもつ無垢な視線がたえず感じる、「かつてあじわったことのない深甚な」緊張なのではないか……

 今日はこの一節に辿り着きたくて書いてきた。これは、ぼくがキルケゴールのなかに勝手に見出している倫理、すなわち「人生の跳躍を歩行に変え」る倫理と同じものではないか、とこれまた勝手に思っている。そしてこれが、ある夢に向かう道を離れて、それと異なる道筋を歩み始めるために(あるいは、それをただの夢ではなく現実に変えるために)必要な倫理なのではないかと思う。

唯生自身は、この感想について、「自分は八〇年代について書いてみたつもりなんだが」と述べている。文脈からすると、これは『隠喩としての建築』その他の柄谷行人の言説をいくらかなりと基にしているようだが、ぼくは彼が日常性の倫理云々について語っていたか定かでない。

 

ところで、キルケゴールの「跳躍」と「着地」についても、言うは易いが、行うはあまりにもかたい。ぼくにはキルケゴールの言う信仰の絶対性を相対化したいという底意があるので、実は跳躍よりもそのあとの着地の仕方如何のほうが重要なのだと見せかけたいのであるが、跳躍がなければ、着地はない。その意味で、信仰の絶対性そのものは決して和らげられるものではない。

もし跳ぶ前から着地することばかりに汲々としていれば、それは何事かに挑戦する前から失敗したあとのケアについて考えつづけるのと同じで、自分に対する防衛線を張ることになってしまう。その意味で、着地と歩行について語ることは、跳躍の力を弱めてしまう危険がある。

飛びきらねばならず、落ちきらねばならないという、この二重の困難を、いかにして解決すればよいのか? どこまで跳べば、落ち始めてもよいのか?

 

この小説でも、同じ問題に逢着している。

「特別な存在」に自分を仕立て上げるのは、いささか馬鹿げているようにも思われる。だが、初めから日常を選ぶのでは、ドン・キホーテ的な倫理には到達しない。その特別さに対する追求を極限まで推し進めた先でこそ、日常性に向かうことが許される。

実存の問題にしても、初めから実存というものに我々が出会いうると考えるのは、まったく馬鹿げている。それはたとえば、自分が生まれてからずっと特異な人間で、誰にも似ていないと考えるのと同じくらい、馬鹿げている。この社会は似たものにあふれていて、構造的であり、特異な実存の存在をまず否定するようにできている。ところが、実存と構造の関係というのは、後者による前者の否定があってはじめて駆動する。形式化されてゆく生の姿を率直に認めた末にその形式からの「切断」と「回生」があるのであって、実存の問題が始まる。それが「深甚な緊張」と呼ばれるのである。

この小説のなかでは、特別さの追求と日常性への回帰を処理するために、語りの構造に助けを求めている。すなわち、主人公の唯生は特別さの探求者であるのに対して、それを観察している語り手が別におり、彼は重和とかエスとか呼ばれる。この構造は前述のディックの小説や大江健三郎の『ピンチランナー調書』にあやかったものであると説明されている。

しかし、実は唯生が虚構内の存在であるということははっきりと述べられており、私=エスが自らを語るために作り上げたキャラクターである。この主体の分裂によって、ドン・キホーテサンチョ・パンサ的関係が一個の人間のなかに両立するようになり、それが上述の困難に対する小説的な立ち向かい方になっている。現実においては不可能な処理であるにせよ、このようにして、作品の主題と形式が見事な一致を見せ、さらに主人公と語り手の関係が途上において変転してゆくという展開にも欠いてはいない。そこにこの小説の見事さがあるとぼくは思う。

阿部和重の『アメリカの夜』はそういう感じの小説である。

愛と夢

恋愛漫画のなかで、恋愛と最大のライバル関係にあるのは、夢ではないかと思う。そこで、躊躇いながら、検証すべき仮説として、次が挙げられる。

「良いラブコメには夢を持った主人公が必要である。」

どうだろうか? あまり確信できない仮説ではある。夢が恋愛とライバル関係にあるというのは、それが時には恋愛を高め、恋人たちの関係を向上させることもあれば、時には阻害することもあるからである。

事の始まりは、如何にして主人公を好きになるか? という点にある。だいたいにして、マンガを愛する人というのは、いくらかオタク的で、平凡で、何もできないわりに様々な可能性と戯れるために空想の世界に耽溺するものである。そういう人物が、自分が理想とする恋愛を思い描くとき、どうするか。どういう理由で、自分(が投影される主人公)が眉目秀麗なヒロインに愛されるに足るか。

一番安易なのは、何か特別な能力を持っている、という設定。異能者としての主人公である。この場合、しばしばファンタジー要素が付加される。典型的なのは『ゼロの使い魔』で、主人公はゼロ(無能)だからこそあらゆる能力を使えるみたいなチート能力の持ち主だったように思う。これは自分の劣等感を優越感に反転させるうまいやり方である。ジャンプのラブコメの礎石を築いた『気まぐれオレンジロード』は、主人公がテレポーテーションその他を使える特殊能力一家の出である。

もっと現実的な作品を志向するなら、主人公は何か夢を持っている。そして、これは現実でもそれほど変わらないと思うが、何か夢ややりがいをもって嬉々として語る人物を前にすると、それがかなり荒唐無稽な目標であっても、ひとはそのひとを好きになることがありうるのではないかと思う。

そして夢は時々、あるいはもっぱら、恋愛よりも大切なものであるから、純粋に空想的な恋愛を愉しもうとしてマンガを手に取ったひとも、夢とは何かということに向き合い、そこに成長の可能性が生ずる。ラブコメが情操教育を担う所以の一つである。

(ちなみにそういう意味では、『ニセコイ』の主人公は、ヤクザ一家生まれの公務員志望で、千棘もヤクザ生まれ、別に夢はないけど何でも万能タイプ、小野寺さんの進路への悩みが時々描かれる程度、なので、彼らのモラトリアム度は高い。)

 

この夢は、しばしば芸術系の夢である。『いちご100%』のばあい映画監督、『電影少女』と『True Tears』と『まほらば』のばあい絵本作家、確か『気まぐれオレンジロード』も父親が写真家なので主人公も写真家になるのではなかったかな? 『イエスタデイをうたって』の主人公リクオもやっぱり写真家を目指している。

逆に、小説家を目指す主人公というのはけっこう希少かもしれない。これは、映画監督なら映画撮影イベント、写真家ならフォトジェニックな女の子を描く、絵本作家なら絵本を物語のなかの紋中紋にする(『電影少女』の場合)など、マンガのなかで動かしやすいものなのに対して、小説がどこまでも孤独な営みで、たとえ主人公が何か書いていても、いまいち絵にならないという理由からではないかと思う。こういうところに芸術ジャンルのなかでの小説の地位低下の要因が潜んでいるのかもしれない。

もちろん、夢は芸術系にはかぎらず、学校の先生であるとか(『君に届け』の爽子?)、保育士であるとか(なんかあったな……)、何でもいいっちゃいいが、それでも芸術系が多いのは、1) 作者自身のマンガ家経験の反映しやすさ、2) 天才と凡才の葛藤、3) 文字どおり「夢」のある商売として、読者の憧れを引き起こしやすい、など様々な理由が考えられる。特に2は重要になるかもしれない。

夢が重要になるのは、それが主人公の魅力になると同時に、ラブコメの大概は高校から思春期の終わりごろまでを舞台にしているので、進路選択が問題になり、それを避けて通ろうとしないなら、何らか物語性のある夢を語らせないといけないからである。

 

しかし、同時に夢は恋愛を阻害しうる。それはたとえば主人公が自分の目標に打ち込みすぎて恋人を蔑ろにしてしまうとか、あるいはその実現のためにしばしの離別を耐え忍ばねばならない場合もあったりする。

あるいはその恋人もまた何らかの夢を持っている場合。これはよくあるケースで、『いちご100%』にしたって、主人公は映画監督を目指して、東城は小説家、西野はパティシエを目指す、という風に、各々異なる夢を見ている。このとき、主人公がごくごく順調に夢に向かって邁進しているなら構わないが、たとえばスランプや、そもそもの才能の欠如に苦しんでいるばあい、そして他方で恋人のほうは順調に賞なんか受賞したりして、その才能をよりよく見出してくれそうな編集者や先輩がいたりすると、こちらとしては劣等感に苦しまざるをえない(その辺をうまく描いているのが『のだめカンタービレ』や『はちみつとクローバー』で、そういう葛藤から逃げられるのが日常系である)。

自分が彼女に愛される理由はどこにあるのか。自分が夢を目指して、そのかぎりにおいて彼女が自分を応援してくれ、傍にいてくれるのであれば、夢に手が届かなくなってしまった自分はもう用済みではないのか。こういう不安や苛立ちが、徐々に現れてくる。

今日もキルケゴールを引用すると、適当な引用になるが、『死に至る病』のなかに、

もしひとが、だれかのことを好きな理由を数挙げて説明できるとすれば、そのひとのことを愛しているとは言えない。それと同じように、もし信仰に至る理由を説明できるとすれば、それは信じているとは言えない。

というような一節がある。だから恋愛にも信仰にも、合理化不可能な跳躍の瞬間が必要になるというわけである。ぼくはそれはまっとうな所説だと思うが、けれどもそれは、そのひとのことをずっと好きでいること(ずっと信じていること)を保証するものではない。もちろんどこにも保証などないし、あって然るべきではないのである。

 

しかし、もし夢に向かうひたむきな姿が君がぼくのことを好きな理由で、そのかぎりにおいて好きでいられるというのであれば、ぼくはそういう恋愛漫画はちょっと嫌だなと思ったりする。だから、良いラブコメの主人公は夢を持っているべきかどうか、ひじょうに疑わしくなる。

夢の話になると、一挙に恋愛はシリアスになる。お互いがお互いのことを好きでいるだけで足りるとするような関係性が、一種のぬるま湯に思えてくる。

たとえば原秀則の『部屋へおいでよ』はけっこう衝撃的で、あるとき酔った勢いでカップルになったふたりは、男のほうが写真家志望、女のほうがちょっと場末なピアニストであるが、ふたりが徐々にそのキャリアをすすめてゆくたびに、お互いの関係に亀裂が生じてくる。写真家の男のほうは、彼女の新しいアルバムを手放しで褒めることができないし、彼女がヘッドフォンをつけて作業に集中している姿に、苛立ちを抑えることができない。どうなるか。二人は立派な写真家とピアニストになる。だが同棲は解消、二人は別々の道を歩んで終わりである。衝撃的なラスト。それはないでしょ……と途方に暮れざるを得ない。

それなら別に夢なんて、はじめからなくてよかったんじゃないのと言いたくなってしまう。けれどそれは二重に誤っている。恋愛が夢よりアプリオリに優先されるわけなどありえないし、まさしくその夢のために二人は惹かれあったのだから。

話題の絶えない社会学者・古市憲寿の最初の単著は『希望難民ご一行様』というピースボートの乗船者についての参与観察で、彼は、世界平和とか社会奉仕のような目的性の縦軸と、みんなで仲良くなって楽しくやろうという水平的関係性の横軸を設けて、ピースボートのような一般に「意識高い系」と呼ばれる団体においても、時間が経つにつれて横軸の比重が高くなり、目的意識は希薄になってくる、という結論を下している。

かなりシニカルな、「だってそんなもんでしょ」という感じの彼の性格がよく現れていて、ぼくは一度だけ彼がいる飲み会に同席したことがあるけれども、やっぱりそういう性格なひとだったと思う。

しかしこれは感性から言うと「日常系」の、無理して頑張るよりみんなで楽しくやれるほうがいいよ! に近く、恋愛の日常性を守るためであれば、夢に向かう向上心がないためにバカと罵られても、それでもいいじゃないかという気がしてくる。

確かに夢は生きがいを与え、それを一緒に育むような恋人がいればなおのこと嬉しいけれども、その夢と恋愛とが両立せずに軋みをあげるようになったとき、どうすればいいのか、そういう結論のない問いがラブコメの世界にしばしば渦巻いているように思われるのである。

 

とはいえ、夢を諦めたからと言って、自分がもう愛されなくなるに違いないと思うのは、どちらかというと過剰に自信がない人間の言い分で、相手の本意を無視した独りよがりな発想に違いないということを言い添えておく。

夢を諦めたからと言って、その夢がそのひとのなかでまったく痕跡なく消えてしまって、ひとがまるきり変わってしまうなどということはない。

問題は、むしろ、その夢を諦めたとき、どういう新しい道を選ぶかであって、たとえサラリーマンになるのでも、たとえまったく違う夢を選ぶのでも、それがかつて夢に打ち込んだときと同じような熱意でもって向き合われれば、あるいは少なくともへこたれて廃人になってしまわなければ、お互いのあいだの関係は、変わらないのではないか。変わることもあるでしょうけど。

そこでもやっぱり、キルケゴールの言う「人生の跳躍を歩行に変え」ることが、日常を生きる一つの倫理になるのではないかと思う。

浮気は恋愛に入りますか?

今日、いつものようにつらつらと書くつもりだったが、久々にキルケゴールの『現代の批判』に書かれてあることを読み返してみて、ぐうの音も出なくなってしまった。

浮気とはなんであろうか? 浮気とは、ほんとうに愛することと本当に遊蕩することとの情熱的な区別が排除されていることである。ほんとうに恋するものも、ほんとうの遊蕩児も、浮気をしているとはいわれない。浮気は可能性とのたわむれだからである。(略)けれども外延的には、浮気は利点をもっている。あらゆるものを相手に浮気できるからである。しかしほんとうに愛せるのはただひとりの娘だけである。恋愛というものを正しく理解すれば、(たとえ混迷の時代にあっては、欲望が移り気な男の目をくらまそうとも)足し算はすべて引き算であり、加えれば加えるほど引いてゆくことになる。(『現代の批判』)

キルケゴールの現代の批判は、後世との関係で言えば、特に大衆批判論の先駆的作品として知られている。信仰者の単独性を強く重んじる彼の立場から言えば、一般大衆や、教会に属して生活する人々の姿は、本来あるべき姿を逸脱しているように思われた。じっさい、彼の半生はデンマーク教会との闘争に費やされている。 世俗の人々(教会人を含む)がくだらないおしゃべりに時間を費やし、神と直接に向き合う機会を逸していることを、キルケゴールは本書のなかで厳しく批判している。

「現代の批判」は、匿名の小説『二つの時代』に対する書評という形式をとっている。小説のなかでは、革命の時代と、現代(といってもキルケゴールの生きた19世紀中盤)とを比較して描いている。キルケゴールは端的に言う。「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃えあがっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代である。」

もちろんキルケゴールは情熱的な革命の時代を賞讃しているのである。情熱の発散として考えられる情熱恋愛のなかには、情熱的な放蕩も含まれる。放蕩は世俗的には忌み嫌われるが、それが情熱的になされ、悪であることを積極的に選び取るのであれば、それも情熱の一部である。

翻って、現代はどうか。現代は、善を行使するでもなく、悪に一直線に落下していくでもなく、そのどちらでもない、一時的な快楽のために、瞬間の燃え上がりのために、浮気が横行して、各々が自らを低くしている時代である、とキルケゴールは言う。浮気は、「本来的な」恋愛からほど遠い、というのが彼の結論である。

映画『ハンナ・アーレント』で助平そうなオヤジとして演じられたマルティン・ハイデッガーは、この一節をどう受け止めたのか。それはまったく定かではないが、アーレントとの不倫関係が結ばれる以前の1927年に刊行された『存在と時間』のなかで、彼が現存在の頽落的形態として「ひとdas Man」について論じ、そこから逃れる本来的あり方について論じたのは、この「現代の批判」に影響されてのことである。

 

ベッキーの話をしよう。ベッキーと言えばぼく(ら)にとっては依然として「おはスタのお姉さん」であり、彼女がポケモンのコーナーの最後に言う「Pokemon the world♪」のやたら流暢な発音は、いまでも脳裡で再生可能な代物である。それ以降のベッキーについては、まあ興味ないと言えば興味ないのだが(テレビ観ないから)、それでもベッキーに対する高い好感度の根底には、いつだってあの「おはスタのお姉さん」がいた。たまにつけるテレビにベッキーがいたりすると、それだけで何となく嬉しい気分になる。

ゲスの極み乙女の川谷がどんな猟奇的なキスをしたのかと思うと憤懣に堪えないが、それについてはいまは措くことにしたい。

 

当初、浮気について肯定的、ないし同情的に書こうと思った。

そもそも、浮気に対立させられているような「本来的な恋愛」があるなんてことは考えない方がいい。それは「本当の自分」がどこかにいると考えるくらい無意味で、不毛で、徒労であって、かえって自分がいましている恋愛を見失わせるだけ。

愛と恋を区別するとか、恋愛と浮気や不倫を区別するとか、そういうのは言葉の遊びなのであって、好きになってしまったら、もうどうしようもない。ぼくは、できるならば浮気されたくないと思うけれども(誰だってそうでしょう)、まっすぐ続いてゆく人生の片隅に、こっそりと聖域をおいて、そこを善悪の彼岸にしておきたいという思いがあるなら、それはそのひとの人生のためにも、責められないのではないかなと思う(そのばあい、墓場まで黙って持っていってほしいけれど)。

人生には、自分だけに再生できる恋愛ソングみたいなものがあるんではないかな。

そういう意味で、ぼくは浮気を一概に責めたいとは思わなかった。そして、「愛」の宣教の名のもとに浮気やその他の日陰の関係を排除しようとするひとがいるなら、それに反対したいと思った。愛の王国にもし浮気や不倫の余地がないなら、その愛はいったい何なのですかと。

ーーああ、これが恋だ

正も誤もない

これが、恋だ

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ところがキルケゴールはなんと的確なのか。

「ほんとうに恋するものも、ほんとうの遊蕩児も、浮気をしているとはいわれない。浮気は可能性とのたわむれだからである。」

可能性との戯れとしての浮気。どれくらい多くのひとが、可能性の魔に魅入られてきたかはわからないけれど、時々、人生がたった一つしかないことに、耐えられない思いをしたことはないか。

「人生一度。不倫をしましょう」という触れ込みで拡大した不倫SNSがあって、最近そのサイトがハッキングされて登録アカウントが大量流出するという事件があって、まあ、ある種の勧善懲悪みたいなかたちで受け入れられたきらいがある。

「人生一度。(だから)不倫をしましょう」という理屈は、常識的に考えて荒唐無稽の極みなのだけれど、まさしく人生が一度しかないことに耐えられない人間には、訴求するコピーだったように思われる。だから、浮気や不倫というのは、本質的に言って、人生が一度きりしかないという事実に対するいとけない抗議だと言える。

ぼくには、読書というものも、他の人生を知りたい、他の人生を生きたいという欲望に突き動かされている点で、浮気や不倫に通じるものがあるのではないかという気がする。恋愛漫画なんて、その最たるものではないかと思っている。

それと対比的に捉えるのであれば、「本来的な」恋愛というのは人生の一回性の肯定であり、唯一無二としての恋愛の選択である。その選択はじゅうぶんに引き受けられるものでなければならない。浮気をする人間は、この選択の不安に耐え切られずに逃亡して、そうでない可能性を夢想したがるものである。

それはただの幼さ、成熟の拒否だけれど、この社会に、あまりに多くの可能性が溢れているように見えることも、その傾向に拍車をかけている。

では、どうすれば、その可能性との無限のたわむれから逃れられるのか。ぼくにはいまひとつの道筋を素描してみることしかできない。

はじめのうち、人生がたった一つの選択肢でしかないことを憂えて、無限の可能性と戯れようとしていた者も、次第に、そのたった一つこそ、実は完全に掴み取ることの困難なものだったのだということに気付くのではないか。そして、それに比べれば、無限の可能性というのは、どれほど安易で手に入れやすく、だからこそ逃れていきやすいものかということに。

だから、あるステップを辿らねばならないのだと思う。はじめ、ひとはたった一つを選び取るという無限の責任に怯え、そこから逃れて無限の可能性に走ろうとする。ところが、その無限の可能性を背景にして、ふたたび一つのものを選び取るということこそ、真に困難であるからこそやりがいのあるものなのだと気付き直す。すなわち受け取り直しのステップである。

ベッキー、だからあなたにはこれからも歩むべき道がある。頑張ってほしいベッキー

だがゲス川谷、てめーは駄目だ。

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