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何故この世界に不幸は存在するのか――セネカ「摂理について」を読む(1)

辛いときにはストア派を読む。これは悪くない選択肢です。ストア派の論客として知られるのは、開祖のゼノンをはじめ、キケロセネカマルクス・アウレリウス帝あたりですが、この最後に挙げた哲人君主の著作『自省録』の岩波文庫版の訳者が高名な精神科医・神谷美恵子さんであることは偶然ではありません。彼らの著作のなかには、病める心を引き寄せるような何かが存在するのです。

 

御多分に漏れずやや傷心だった僕も、セネカ(紀元前27-紀元68年)を手に取り、ここにいくつか読後の記録を残す次第です。著作は「摂理について」、岩波文庫版では兼利琢也訳で改版されたものが『怒りについて・摂理について・賢者の恒心について』というタイトルのもと、2008年に出版されています。摂理とは如何にも時代がかった言い回しですが、そこで論じられているのはいつの時代にも普遍的な問いです。

 

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この作品は書簡形式になっており、ルキリウスという彼の弟子が投げかけた問いに答えるかたちで展開しています。その問いというのは、

もしこの世界が摂理によって動かされているのであれば、どうして善人がこれほど多く不幸な目に遭わなければならないのか?(I,1)

というものです。誰もが善人を自称するわけにはいきませんが、善人であっても悪人であっても、辛いことがあれば、どうして自分だけがこんなに辛い目に? と思ってしまうもの。私たちはこれをうまく受け入れることができるのでしょうか?

 

ルキリウスが提起しているのは、一言で言って、悪の存在の問題と呼べるでしょう。この問題が普遍的であることは先にも述べたように疑いを入れませんが、それが最も苛烈なかたちで現れてくるのは、一神教の世界、造物主の存在を想定する世界においてであると思われます。一人の神が世界のすべてを創造したならば、そしてそれゆえに万物は神の意図に沿って動くのであれば、どうして悪というものが存在するのか? この悪さえも神は望んだのか? あるいはそれが神の想定外のものであるとすると、神は万能ではないということなのか? キリスト教はこの問題に対して様々なかたちで答えていますが(神義論)、未だかつて僕は十分に納得したことがありません。

 

キリスト教ストア派は多くの点で異なっています。セネカの時代には、彼が家庭教師を務めていたネロ帝がキリスト教に対する迫害を行っていましたから、キリスト教は異端中の異端でした。しかしながら、両者には多くの点で共通する点があり、ストア派の概念がキリスト教の誕生に貢献した役割は決定的であると考えられています。ではストア派の、とりわけセネカの世界観はどのようなものだったのでしょうか。

 

ストア派は一般的に神の存在を認めますが、それが人格的な姿をとることはないとされています。それは汎神論的な神で、つまりは世界そのものに他なりません。そしてその世界とは、決定論的・運命論的な論理に基づいて動いています。

運命こそ我々の主であり、我々皆に公平な時間は、時の初めから定められている。ある原因から別の原因が生ずる。出来事は、それが公的なものであれ私的なものであれ、長大な連鎖を形成している。我々がすべてを勇気をもって耐えねばならないのは、我々がそう考えるように、何事も偶然には決して起こらず、論理に従って起こるからである。(V,7)

ところがセネカは、どちらかというと人格神的なビジョンを持っており、私たちが服従する運命を決定した神が存在すると考えている様子がうかがわれます。しかしながら、キリスト教と違っていてユニークなのは、その神でさえもこの世界の運動法則のなかに潔く服しているというところです。なんだか公平ですね。

宇宙と同じ運動のなかに運び去られることは大いなる慰めである。我々に生きて死ぬことを強いる力がどのようなものであるにしても、それは神々をも同じ必然性のうちに含みこんでいる。同じ不可逆な流れが、人間と神々を押し流すのである。この世界の創造者であり世界の主であるところの方でさえ、運命を書き込んだあとでは、自らもその運命に服従するのである。彼もつねに服従しており、たった一度しか命令することはなかったのである。(V,8)

さて、こうして神(神々)がいて、この世界は彼(ら)が定めた運命によって動いている。すなわちセネカは「摂理」の存在を認めているのであって、だからこそ弟子のルキリウスは、なぜ摂理が存在するにもかかわらず(神慮によって世界が動いているにもかかわらず)、ひとは(悪人ならともかくしばしば善人こそが)苦しみに遭わねばならないのか、と問うことができたのです。

 

セネカの答えはシンプルです。そうした苦難は、神性が私たちに与えた試練であり、それを乗り越えることによってその者の徳の高さが示されるのである、と。

よいか、神々があなたの魂を掻き立てるために送られた試練を恐れていてはならない。不幸とは美徳にとっての好機なのである。(IV,6)

この世界に存在する悪、逆境、不幸、その他諸々は、私たちが自らを高め、自らを知り、外界に対する隷従以上のものである人間らしさを証明するためのチャンスに他ならない。ストア派はこのように考えます。その人間らしさを証明するためには、この悪を平然と受け入れ、それを軽蔑してみせるのが第一です。運命的なものと格闘しようとするのではなく、それと調和してみせることで、試練に打ち克つ。快苦に流されない超然的な態度によって、賢人としての態度を示すこと、これこそがストア派の本懐です。

 

こうした考え方は、近代の幕開けにある思想家ルネ・デカルトにも受け継がれています。『方法序説』第三部で、彼は暫定的な道徳として四つの格率を挙げていますが、その三つめはストア派に対する暗示が込められています。

私の三つ目の格率は、運命よりも自分自身に打ち克ち、世界の秩序よりも私自身の欲望を変えるようにいつも努めるというものであった。[...] だが、告白しておくと、このような態度から物事をすべて眺めることに慣れるには、長い修練と何度も繰り返される瞑想が必要である。そして思うに、かつて、運命の帝国に服従しながら、苦しみや貧困にもかかわらず、神々とともにある幸福について語ることができた、あの哲学者たちの秘訣は、この点にこそあるのである。(『方法序説』第三部)

デカルトはさらに『情念論』において、やはりストア派の影響を受けつつ、情念と理性の働きについて検討しているわけです。ストア派について言えば、どれほど外界(身体もここでは含む)が決定論的に支配されているとしても、魂はそれに対して優位に立つことができる。あらゆる苦痛(快苦両方を含む)にもかかわらず、むしろそれゆえにこそ、それを耐え忍ぶ人間は自らの尊厳を示す、思うがままにならない状況に置かれたときこそ、人間は自らの真価を発揮するのです。こうした心身二元論的な考え方がプラトンのそれ(「肉体は魂の牢獄である」とする考え)を思わせることがあるにしても、ストア派心身二元論が心と身体を分離して良しとする考え方でないことは明らかです。彼がはっきりと述べているように、

逆境がなければ、勇気は枯れ果てる。(II, 4)

むしろこの逆境を支えにすることによってしか、人間の自由というものは現れてこないのです。

 

ストア派の考え方は、どうやら「自然に従って生きよ」というたぐいの教科書的寸言からは見えてこない、はるかにアクティヴな考え方を含んでいるようです。セネカは運命と人間との関係を多くのアナロジーによって説明していますが、この運命の厳格さを父親、軍曹、教授などに擬えています。どうやらだんだん、「圧倒的成長」を重んじるブラック企業社会にもふさわしい倫理のようにも思えてきますが……。

 

あらゆるものを逆境と見做してしまっては、どうもあまりに窮屈でギラギラしてしまいますが、私たちに訪れる艱難辛苦を、なんとか自分にとって良きものに変えてゆきたい。ストア派の哲学はそのような願いから生まれてきたものと言えそうです。さて、ストア派は困難を逆手に取る賢人的な在り方を、「模範」として提示します。この「模範的であること」について本当は書きたかったのですが、今日はのっけから長くなりすぎてしまったので、稿を改めてそのことに触れたいと思います。