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模範的であるということの擁護――セネカ「摂理について」を読む(2)

前回の議論をまとめておきます。セネカは「摂理について」のなかで、「なぜこの世界は正しいはずの神慮によって動いているにもかかわらず、最もその恵みを受けるべき善人たちにかぎって不幸に遭わねばならないのか?」という問いに答えようとしています。私たちは普段「この世界は正しいはずの神慮によって動いている」とは考えませんが、少なくとも問いかけの後半は誰もが抱くことのある嘆きでしょう。勧善懲悪式の「努力は必ず報われる」という思考は、ニヒリズムに陥らないために自然に身に着いているものです。そして正しいひと、罪のないひとが不幸な目に遭ったときには、この世に憤りを感じずにはいられないはずです。

 

この問いに対するセネカの答えは簡潔なものです。不幸は我々を試す試練であり、そのような不幸に心を動かされないことで、私たちは自らを高めることができる。倫理などで習う所謂「アパテイアの精神」というやつで、我々も見習いたいものです。しかしセネカにとって、そのような態度を採ることが可能なのは、結局のところ、問いかけの前半部分、すなわち外の世界は我々にとって悪意をもって接してくることはない、という確信があるからでした。前回も引用した重要な一節を再掲しましょう。

我々がすべてを勇気をもって耐えねばならないのは、我々がそう考えるように、何事も偶然には決して起こらず、論理に従って起こるからである。(V,7)

 この論理logos=神という理屈がストア派の根本主張であることは前回も見たとおりです。このロゴスが信じられない世界では、艱難辛苦に耐えることで何が得られるのかもぼやけてしまいます。そしてこの世界こそ、一般に「不条理の世界」と呼ばれているものであることが分かってくるはずです。不条理な世界においては、待ち受ける逆境の背後に、我々に対して好意を持ち、逆境の克服を期待している超越的存在を想定することができません。苦しみの果てに苦しみがあり、しかもそれが何の意図もなく起こったものだとすれば、どこに人間の尊厳があるのでしょうか。現代世界は、ストア派の重要な前提が失われてしまった世界なのです。

 

それでもなお、この苦しみに耐える態度を擁護することは可能でしょうか。セネカの言葉を手掛かりにしながら、時には彼から遠ざかりつつ、考えてみたいと思います。注目したいのは、セネカにとって、この善人、賢者たち、すなわち苦しみに耐える意志を持っている人々は、模範的人物として奨励されているということです。

なぜ苦境を被らねばならないのか? 他の人々に、同じ苦境を耐え忍ぶことを学ばせるためである。その者は、他の人々に模範(例)を与えるために生まれてきたのである。(VI,3)

苦しみに耐え忍ぶことによって模範的であるということ、これこそが賢人たちの生まれてきた理由であるとさえセネカは言っています。このあと擬人化された神性が読者に語り掛けることで本作品は結ばれますから、これは殆どセネカの結論と言ってもいいはずです。こう言い換えてみましょう。人間が生まれてくるのは人間のためであり、彼らは苦しみという絆(鎖)で結ばれている。ここには、超越的存在や、論理によって運行する世界といった考えは必要ないはずです。むしろ、まったく同じような苦しみを苦しんでいる者同士、この世界に存在していることを肯定するために、自分も他者もそれに耐え抜いている(耐え抜きうる)のだという事実が必要なのです。

 

この「模範的であること」は、セネカ自身の議論の立て方とも無関係ではありません。彼はギリシャ・ローマの哲学者として、やはり修辞学に長けていますから、議論をするためには例証が必要であることを知悉しています。

それ[運命]はムキウスに火の試練を与え、ファブリキウスに貧困の試練を与え、ルティリウスに亡命の試練を与え、レグルスに拷問の試練を与え、ソクラテスに毒の試練を与え、カトーに自死の試練を与える。偉大な模範にはいつも悪運が付いて回るのである。(III,4)

こうした例を褒め称えることで、セネカは、苦しみは決してひとを貶めるものではなく、むしろその逆境を耐え忍ぶ姿こそ、私たちに勇気を与えてくれるのだと考えています。この生きていくための模範という在り方は、今日でもなお、私たちにも受け入れられるものではないでしょうか?

 

もちろん、そこには多くの留保が必要になるはずです。たとえば、この模範的存在は、押し付けられるにはあまりにも暑苦しいものです。道徳の授業で私たちはたくさんの模範的な生き方(嘘をつかない、親切にする、迷惑をかけないetc...)を学びますが、それらは色あせてみえるばかりではなく、いささか欺瞞的にすら見えてしまいます。あるいは「俺を見習え!」と言ってくるような人間には、できるだけ近寄りたくないと思うことでしょう。あまりに理想的/偽善的な模範が押し付けられてきたばっかりに、模範という存在そのものに対する抵抗感が生まれてしまいます。

 

さらに、模範とそれに倣うひとの関係が、単なる再生産的な関係になってしまっては元も子もないでしょう。そういうひとはエピゴーネンと呼ばれます。ある成功者が登場したときに、たくさんのエピゴーネンが現れることで、その成功者に対する視線さえも自然と冷たいものになってしまう。このような情景は何度も繰り返されてきたものです。

 

しかし模範というものは、上から押し付けられなくても、下からべったりと同一化してゆかなくても、私たちの生活を取り巻く存在であるように思われます。「まねぶ(まねる)」ことが学びの起源にあるかぎり、何かを始めるときに先達としての模範を心に抱くことは必要不可欠であるように思われます。そして私たちはそのありふれた性格のゆえに、模範的存在が持っている重要な役割を見過ごしがちになっているように思います。しかし生きることを誰から学ぶのでしょうか、既に生きたひとたちからでなければ?

 

セネカの議論は、誰もがこの世の法則に苦しまねばならない、という深い諦念に支えられているように思われます。前回に見たように、創造者でさえもその法則の例外ではありません。キリスト教において神は地上の法則を断ち切る例外的存在ですが、キリストが血肉をもって苦しみ死ぬという事実には、セネカの議論と同じ傾向を見ることができると思います。だからこそキリストはひとりの模範であり、「キリストのまねび」ということがしばしば言われるのでしょう。

 

もし僕の生きる理由が、他人に対して模範を示し、彼らが苦しみに耐えることを助けることにあるのであれば、僕が生きていることは彼らが生きるための理由になるのであり、また既に別の人々が生きていたということによって僕も生かされてきたということになる。生きるということは殆ど連帯責任のようなもので、誰も特権的な模範的存在にならないまま、お互いがお互いを見倣っているかのようです

 

これは本質的に他人本位な考え方です。しかし自分が生きている理由を自分のなかに求めることは不可能なことのように思われますし、ましてや神のような超越的存在には求められないとあってみれば、他人とともに生きているという事実以外に、その理由を求めてみることなど可能なのでしょうか? とてもナイーヴなことを言っていることは承知していますが、セネカが言っていることもこれと必ずしも遠くないのではないかと思います。

 

しかしこの模範というものはどのようにして伝えられるのでしょうか。直接的な伝達によるものでないことは明らかです。それが満足に伝わることはありえません。そうではなく、時々に誰かの背面に感じ取ったりするなどして、私たちが勝手に自らにとっての範例的姿を読み取ってしまい、そこからそのひとのことを私淑してしまう事態が始まる。そのようなことの方がはるかに多いように思われます。あるいは文学というものも、そのような模範を示してくれる媒体に他ならないように思われます。

 

いまでは、ストア派から出発しながら、この模範的存在のなかに必ずしもストア派的でない意味を見出したいとさえ思います。しばしばひとは情念に敗れますし、文学に現れる人物は決して高潔なひとばかりではありません(むしろ稀少です)。しかしながら、その情念に向き合い生きてみたその記録は、いつでも胸を打ってやみませんし、それもまた一つの模範たりうるのです。

 

それゆえ僕は「模範的である」ということを擁護してみたいのです。それは僕が模範的な存在になりたいということではありません(いつか意図しないうちに誰かにとってそのような存在になることもありうるのかもしれませんが)。そうではなく、僕はごく多くの模範をこの世界のうちに見出したいと思っているのです。こうしてブログを書くことを始めたのも、その発見を綴るためだったのではないでしょうか。

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