「風博士」と「勉強記」――牧野信一と坂口安吾(1)

本来ならば次はデカルトの『情念論』を読むつもりでしたが、中々思うようにいかないこともあり、前回の牧野信一のあとにつづく日本文学の流れを汲むということで、坂口安吾(1906-1955)に触れておきたいと思います(twitterに挙げた文章の清書です)。

 

坂口安吾は、戦後の「堕落論」や「白痴」、「桜の森の満開の下」によってとりわけ知られますが、文壇へのデビューは、31年の「風博士」の発表と、それが牧野信一に評価されたことに始まるとされています。

図書カード:風博士

図書カード:「風博士」

 

牧野の文章を読んでみると、これはごく短い推薦文で、『文藝春秋』に載ったとはいえ、よくこれで人目を惹いたものだなと驚くばかりです。しかしその次に安吾が発表する「黒谷村」も、やはり彼の称賛を受ける(35年の単行本刊行時)ということで、徐々にその文名は高まっていったのでしょう。この前後の安吾の生活は「処女作前後の思ひ出」(1946)に詳しい。牧野信一との結びつきについても少しく語っています。

図書カード:坂口安吾君の『黒谷村』を読む

図書カード:処女作前後の思ひ出

人々はそのころの僕の作品を牧野信一に似てゐると言ふけれども、之は偶然で、私はそのときまで牧野信一の小説を全然読んでゐなかつた。彼と私の愛読するものがそのころ全く同じであつたから、例へばポオ、ドン・キホーテボルテール、等々、自然似た作風になつたのであらう。然し、その後、牧野信一の小説を読んで感心したが、彼の後年の作品は好きになれず、彼の中年の作が好きで、そのためによく喧嘩をした。彼に就ては、いつか小説に書いてみたいと思つてゐるから、今は多く語らない。

 

さて安吾の「風博士」はと言えば、はるか昔に読んだ気がしますが、いま読んでみてもさっぱり意味がわからない。この作品について、僕に「絶望と爽やかさの同居するイメージ」と言ってくだすった方がありました*1。中々僕はそんな風に思うにも至っていませんでしたが、風博士の「敗北」と、その死によって彼は風となり、そのことで蛸博士に一矢報いたのだとする弁士の弁明は、既にドン・キホーテサンチョ・パンサのようなエゴの分裂を示しているようにも思えます。

 

周囲の人には宿敵・蛸博士との闘いの味方に立ってもらえず、かえって罵倒されるばかりの風博士という空想的人物は、それでも必ずしも哀れを催させるものではない。むしろ弁士の「然り、風である風である風である」という力強い肯定によって、彼はまったく正しい人物だったと思うことができる。この「然り」のなかに、坂口安吾の肯定の文学の最初のモチーフが現れているように思われます。

 

では、このような肯定に至る安吾の青年時代とはどのようなものだったか。伝記的な事実は詳らかにしませんので、ここでは彼が39年に発表している「勉強記」という一種の自伝によって考えることにしましょう。

図書カード:勉強記

これは抜群に笑わせる作品です。東洋大学の印度哲学科に入学した安吾は、ここでは涅槃大学の印度哲学科に入学する栗栖按吉に。彼は救いを求める求道的(でかつ愚昧)な人物ですが、涅槃で印哲なのに栗栖(キリスト)なのは既にギャグなのでしょうか?

 

ガマガエルやゴリラに擬られる男・栗栖按吉は、涅槃大学に入学する。印哲なので同級はもっぱら坊主であるが、彼らが大学生活を俗流に謳歌しようとしている一方で、按吉は禿頭にしてしかも真面目に授業に出ようとする。サンスクリット語パーリ語チベット語を覚えるために呻吟すれども、「六時間も七時間も辞書をめくった挙句の果に、ようやくたったひとつの単語を突きとめて凱歌をあげる程」。とはいえそれを教える大学教授だって、辞書一つ引けないのです。おまけに放屁する。蔵書に寝小便をする。ファルスもここに極まれり。

 

けれども同時にここには、(反)教養小説的な側面がある。この時期の安吾自身が、悟りを開こうと発起しており、その学問に打ち込むさまと言えば、まったく実直なものであったとのことです。ところが、この小説の語るところでは、仏教の講座に足を運び、坊主のもとへ行ってはみても、「人肉の市をさまようような切なさ」からは逃れえない。

 

「人肉の市をさまようような切なさ」! 驚きの名句です、それは本当に切ないのでしょうか? 安吾というひとはこういうものに切なさを見出してしまうのですね。そしてついには仏門を諦めてしまう。このように、救いを求め生から解脱しようとする動きから、苦悶のなかに踏みとどまる生への、作家の自己遍歴を語るものとなっているという点でも、この作品は興味深いように思うのです*2

 

これをこれまで考えてきたストイシズムの文脈から考えてみたいと思います。仏教的ストイシズムというものがあるとすれば、それはやはり欲望を寂滅させようとする意志の循環的な運動に共通するものがあるからです。日本ではとりわけそれが、修身の授業として現れ、欲望を我慢するということは戦間期日本の体制的イデオロギーにすらなったのではないかと思われます(そしてそれは今日においてもなお)。

 

一方でそれは反体制的運動にすら見られる特徴で、戦前から68年頃にかけての共産主義というものも、大枠では非常に農村的な、貧しさに由来するものだったのではないでしょうか(とはいえあまりにざっくりした見方なので、もう少し考える余地が欲しいのですが*3)。

 

昭和のプロレタリア運動もやはりそうで、現実の過酷さを盾に、しばしば芸術の豊饒性を軽視するところのものであったようです*4。そのなかで牧野信一は、樽野という、外面的にはストイックでありながら(ああ、言葉の定義がはっきりとしません……)、内面においては夢想の花を開かせるという二重化によって、夢想的なものの擁護を行っていたように思われます。しかしそこでも、夢想がいつか滅びるという運命的な世界観は残っている。僕はそのように解釈しています。

 

安吾においては、その夢想は内面的なものに留まることなく、修身的ストイシズムの軛を越えて、現実そのものと区別がつかなくなってしまう。もはや、内面と外界という区別すらもないようで、そのことは、精神と身体という区別自体が失われてしまうことと軌を一にしているように思えます。精神が身体を制御するのではない、そのようなことに倫理を見出すことは不可能である。むしろ、肉体そのものが欲望の言語で思考を始め、そこに新たなモラルが生まれようとしている。戦後「肉体自体が思考する」などでアプレ・ゲールの肉体派を切り開いた安吾が、既にここに見えてこないでしょうか。

図書カード:肉体自体が思考する

 

しかし、俗人は女に惚れる。命をかけて、女に惚れる。どんな愚かなこともやり、名誉もすて、義理もすて、迷いに迷う。そのような激しい対象としての女性は、高僧の女性の中にはないのである。按吉は痛感した。どちらが正しいか、それはすでに問題外だ。迷う心のあるうちは、迷いぬくより仕方がないと痛感した。

理想的世界におけるアパテイアないし解脱の境地への憧れが一方にはあり、他方では現世の絶えざる葛藤への苦しみがある。けれども、この葛藤そのもの、俗人の迷いのなかに安吾は賭ける。これが彼の作家としての出発点にあったように思われます。そしてファルス(笑劇)という手段こそ、神経衰弱に陥った精神を解放して、この世界を肯定するための力となるのです。

 

というわけで、次は「ファルスについて」と「ピエロ伝道者」についてまとめておきたいと思います(これもtwitterには書いたんですが)。

*1:twitterにて。ありがとうございます。

*2:「処女作前後の思ひ出」では次のように語られている。「坊主の勉強も一年半ぐらゐしか続かなかつた。悟りの実体に就て幻滅したのである。結局少年の夢心で仏教の門をたゝき幻滅した私は、仏教の真実の深さには全くふれるところがなかつたのではないかと思ふ。つまり仏教と人間との結び目、高僧達の人間的な苦悩などに就ては殆どふれるところがなかつたもので、倶舎くしやだの唯識ゆいしきだの三論などゝいふ仏教哲学を一応知つたといふだけ、悟りなどゝいふ特別深遠なものはないといふ幻滅に達して、少年時代の夢を追ひ再び文学に逆戻りをした。」

*3:僕はここで(彼自身がこう語っているわけではないが)竹内洋の『教養主義の没落』を念頭に置いています。

*4:安吾、同じく「処女作前後の思ひ出」より。「当時隆盛な左翼文学に就ては、芸術的に極めて低俗なものであつたから全く魅力を覚えなかつた。もしあの当時左翼芸術に高度の芸術性があつたなら、私の今日もよほど違つたものになつてゐたと思ふ。」