ものみな文にあこがれて

自分の文章はわりに好きな方です。冗長で、論理性に欠ける文章だとは思いますが、それは知性の問題であって文章の罪ではありません。むしろフェティッシュであると言っていいくらい文章には愛着があって、たとえば一度ブログなどに文章を投稿すると、そのあと読み直すのは十度や二十度では足りないほど。そこにはもちろん、反応ないかなという期待も交じっているのですが。

読み返しているうちに、段々と修正したい部分も現れてきます。たとえば昨日の投稿であると、まず出だしから良くない。

『青ひげ』という民話がある。シャルル・ペローによるもので、実在の人物であるジル・ド・レやアンリ八世をモデルにしたのではないかという説がある。

「がある」「がある」と二度続いていて、とても美しいとは言えない。それから、自分の文の特色として、「~というものがあって(があるが)、……である」というのが比較的続きやすいことにも気付かされます。何か知っている余計な知識を小出しにして、それを深めず、同じ文のなかで完結させてしまう傾向があるのではないか、と思って、反省したりするわけです。

こういう瑕疵は、訂正することもあれば、しないこともあります。昨日は、読み返すうちに、読むたびに感ずる不満が一種の自虐的な嗜癖になって、いっそ直さないほうが快感であるという結論が出たので、そのままにしてあるわけです。

七つ目の扉が開かれ、三人の前妻が現れる。しかも、彼女らは生きている。

これは、「しかも」よりも「しかし」の方が、文章の接続からして明らかに良く、よほど直そうかとも思いましたが、時には曖昧な表現が残っていても、良いかなと思うこともあります。

もちろん、誤字のたぐいは直ちに訂正しなければなりません。一度書き上げて投稿したあと、ぼくは何度も読み返しますので、基本的に誤字はしません。逆に、誤字を多くしてのさばらせているひとをみると、一寸信じられない思いがする。読み返さないのでしょうか?

こういったわけですから、ぼくには伝えるべき文章術というものはありません。あるとすれば、なるべくたくさん読み返すのが良いのではないか、これだけです。といって、それで改善するか否かは保証の限りではありませんが。

 

文は人を表すとはよく言ったものです。絵を描かずに生きるひとはいます、映像を撮らずに生きるひとはいますが、文を書かずに生きるひとは、中々いない。そして、文章はあらかじめは存在しない自分のかたちをかたちにするための、もっともすぐれた手段ですから、多くのひとが、できるならば良い文章を書きたいと望むのは、まったくもっともなことです。(本当なら、筆跡も素晴らしいと尚のことよいのですが、ぼくはこれはひどいです。読めたものではありません。インターネットのおかげで直筆を揮う機会が減って良かったなと思っています)

新年から、いくつか文章改善法的なブログが上がっていることを見受けました。

僕が文章をうまく書けない2つの原因 ー要件を言おうか

このブログでは、文章の筋道を予め考えていないことと、集中力が持続しないことを「うまく書けない原因」に挙げて、対策を講じています。

ブコメに色々とアドバイスがありますが、「結論→その理由説明」型が良いとか、「論点→論拠→結論」型が良いとか、けっこうバラバラです。前者は特に理系の論文作法ですね。

文章作法、文章読本といっても、媒体や読者によって、あるべき姿が変わってくるのは自然なことです。

ブログでは、言いたいことを予め提示する、論点を箇条書きにして整理する、最後に結論をつけるなど、情報伝達に重きを置いたプレゼン型の文章が一般に推奨されていると言えます。

……つまり、いま書いているこの文章の対極にある文章です!

ぼくとしては、改行しまくりなのに空疎なブログとか、サービス過剰になりすぎなブログよりは、顔の見えやすいブログが良いと思う。けれど、自分がウェブの膨大な情報量に直面するとき、厳しい取捨選択のなかで、一々零細ブログの駄文を丹念に読んでいられないのも事実。

WEBという短文文化でまともなものを提示することの難しさと、単行本収益のヤバさ

という増田記事もあって、これは印象論じゃないかと反駁されているようですが、web社会はやはり短文文化ですね。なるほど、ぼくがこの頃更新されるたびに読むようにしている人気ブログはEverything you've ever Dreamedで、これはそこそこまとまりのある文章ですが、やはり余程の文章力に恵まれたひとのもの。

ぼくもできれば様々な文章実験をしてみたいと思っていますので、「~を……すべきたった○○の理由」とか、いつか書きたいと思っています!

「読書」の方法と「文章力」を考える、2015年に読んだ8冊の本 - ぐるりみち。

このブログは、バランス良いですね。要点絞って、情報伝達して、できればアフィリエイトに誘導したいという欲望があって、それが良いと思います。

 

もしブログで食べていくとか、マネタイズしたいのであれば、こういった努力は不可欠だと思います。しかし、一銭にならなくても、ひとは文章を書きたいという欲望に駆られることがある。それは、文章を書くということが、ある意味では精神修養にも似ているからだと思います。一塊の段落は、そのひとの呼吸のテンポを表してもいる。だから、みだりに改行するのは、ちょっと抵抗があったりする。

新年早々はてなブログでは、あまりに「ブログでいくら稼ぎました!」的な話が多い……ちょっと即物的すぎやしますまいか。もっと、新年の抱負とか語っちゃうのでも良いのではないか。そんな気がします。

文章を書くのは、それがもっぱら心の糧になるからです。文章を読むのも、同じ。できるだけ、穏やかな文章を読んだりしたいものです。

そう、できれば大家の文章が良い。2016年、遂に谷崎潤一郎の文がパブリック・ドメインになりました。

青空文庫に谷崎潤一郎「春琴抄」、江戸川乱歩「二銭銅貨」など登場

まだ『春琴抄』くらいですけど(これはとても良いものですけど)、これからたくさん読めるようになることを期待しています。大谷崎の文章は、心を洗います。

なんと同じタイミングで、高野文子さんが「陰翳礼讃」に絵を添えていて、これも、とても、良い。

マンガアンソロジー 谷崎万華鏡

角川ソフィア文庫などで出ている『陰影礼讃』、お読みの方はご存知と思いますが、表題作自体は短くて、他にいくつかのエッセイが入っています。「現代口語文の欠点について」など、『文章読本』以外にも、作家の試行錯誤の跡がみられて、たいへん興味深いです。個人的には、「客ぎらい」という文で、猫のしっぽを生やす谷崎翁が、かわいい。

「陰影礼讃」の跋文で、谷崎氏は、突然、奈良の「柿の葉鮨」を強力にプッシュします。あれで中々、食ブロガーの先駆けみたいなところのあるひとですから(嘘)、多くのひとが涎を垂らして、食べてみたいと思ったに違いありません。

ところが谷崎氏も、「旅のいろいろ」という文では、自分の影響力をちょっと惧れて、好きなものや好きな場所はなるべく教えないようにする、だって、みんながそこに詰めかけると困ったもので、店の心地よい応対も自然と変わってしまうものだから、と言っています。

ブロガー諸賢においては、もって戒めとすべし、ではないでしょうか。

 

 

……とか言いながら、ごめんなさい、これからぼくもamazonへのリンク貼ります。amazonの許可が降りたんだよーッ

陰翳礼讃 (角川ソフィア文庫)
谷崎 潤一郎
KADOKAWA/角川学芸出版 (2014-09-25)
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