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小説はどこで読むの?

ウラジーミル・ナボコフは『文学講義』のなかで次のように書いている。

小説の質を試すのにいい処方箋は、結局のところ、詩の正確さと科学の直感とを結び合わせることだ。芸術の魔法にどっぷりと身を浸すために、賢明な読者は天才の作品を心や頭で読まず、背筋で読む。たとえ読むあいだ、少々超然とし、少々私心を離れていなくてはならないとしても、秘密を告げるあのぞくぞくとした感覚が立ち現れるのは、まさにこの背筋においてなのである。かくして、官能的でかつ知的でもある喜びを感じながら、わたしたちは芸術家がトランプ札で城を築くのを見まもり、そのカードのお城が美しい鋼とガラスの城に変貌してゆくさまを見つめる。

賢明な読者は天才の作品を心や頭で読まず、背筋で読む。大事なことなので二回言いはしたが、では心、頭、背筋で読む読み方は、それぞれどう違うのか。

心で読むのは、情動的な読み方、これが好き、あいつが嫌い、そういう反応をモロにあらわにしながら読む仕方だと考えてよいだろう。より高尚になれば、それは詩情でものをとらえる仕方であると言える。頭で読むのは、知的な読みで、作品をより分析的に捉え、主題や構成を掴もうとする。これはより明晰で、人称を離れた冷めた見方が要求される。

後者は、よりナボコフ的な理想に近い気もする。ナボコフは再読こそが読書であると言って、一度読んだあとで、小説世界の全体地図を作り上げたうえで、もう一度読むように奨励している。

だが、頭「だけ」で読むのであれば、小説の世界に入り込んでいくことはできない。芸術の世界に「どっぷりと身を浸す」ためには、より身体的な読書が必要になる、と言わねばならない(これが一般に言う知情意logos, pathos, ethosに相当するとすれば、背筋はethosということになるがどうか)。

背筋で読む、というのは、読んでいるうちに、だんだんと背筋がピンと伸びて、だんだんと電流が流れるように、しびれる、ぞくぞくとした感覚に身を委ねてゆく。そういう読み方であると思う。それは、知的な世界から、ふたたび情意へ、しかし知によって高められた情意へと回帰する仕方ではないか。

「良い読者と良い作者」と題されたこの文章で、ナボコフは、けっこう重い課題を読者に要求しているわけである。良い作者は相当苦労しているのだから、読者も、少なくとも良い読者であろうとするのであれば、それ相応の努力をしなければならない。

そのことを、彼は登山の比喩で説明している。作者が這う這うの体で登る小説の高みを共有するためには、読者も同じように山に登らねばならない。しかし、もし山頂部まで到達すれば、そこから眺められるのは、何ものにも代えがたい光景に他ならない。

 

情で読む読書から逃れるのは、ちょっと難しい。

思うに、娯楽に身を任せすぎた人間ほど、情緒的で、本能的な読み方から脱却できないでいる。娯楽というものは、もっぱら読者大衆の欲望に迎合するような作品を作るもので、それを見事に裏切るものだけが、娯楽という名では片づけられない、芸術の領域に入ってゆく。

たとえば、君、「太陽の季節」をどう読みますか?

 

この小説は、単なる暴走する若者を描いているのではない、というエクスキューズに、語り手による絵解きのような箇所があって、たとえばこのあいだ引用した箇所がそうである。

人々が彼等を非難する土台となす大人達のモラルこそ、実は彼等が激しく嫌悪し、無意識に壊そうとしているものなのだ。彼等は徳と言うものの味気無さと退屈さをいやと言う程知っている。大人達が拡げたと思った世界は、実際には逆に狭められているのだ。彼等はもっと開けっ拡げた生々しい世界を要求する。一体、人間の生のままの感情を、いちいち物に見たてて測るやり方を誰が最初にやり出したのだ。(「太陽の季節」)

語り手はこうして、描き出された若者たちに完全に迎合することなく、この「大人達」に対する代弁者のような役割を果たしている。ところで、その文体的な特徴として、「~だろうか」の頻出を挙げることができる。たとえば、こう。

目を開いた彼女を眺める竜哉の眼差には、試合での強敵に対する一種敬意と親愛の情があった。敗れた自分を覚った時彼を襲ったのは、試合で遭遇した強敵に対しもう一度ぶつかり直して行こうと言う、いわば復讐への喜びと感動であった。が所詮復讐の情愛は残忍な喜びに変るものではないだろうか。何故彼は、最初英子を抱き上げた時の、あの未知の喜びを大切しなかったのだろうか。(同)

太陽の季節」は、ひとの愛し方を知らない竜哉の不器用すぎた恋愛を描いたような作品で、ここで語り手の言う「残忍な喜び」に変わった復讐の情愛が、彼と英子の関係を悲劇に導いていくわけですが、ここで語り手は、「だろうか」「だろうか」と二度続ける。

この「だろうか」は、時には語り手自らによって答えを与えられるばあいもあれば、そのまま虚空に漂う、宛先のない問いかけに終わる場合もある。そういう場合、語り手自らが、竜哉や英子の経験をもとに、自らの人生を測りなおそうとする、そういう意志がしばしば感じられる。

この語り手の位置が、実はこの小説において主役のような場であって、作品世界における粗暴さをいくらかなりとも償っているような気がする。