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浮気は恋愛に入りますか?

今日、いつものようにつらつらと書くつもりだったが、久々にキルケゴールの『現代の批判』に書かれてあることを読み返してみて、ぐうの音も出なくなってしまった。

浮気とはなんであろうか? 浮気とは、ほんとうに愛することと本当に遊蕩することとの情熱的な区別が排除されていることである。ほんとうに恋するものも、ほんとうの遊蕩児も、浮気をしているとはいわれない。浮気は可能性とのたわむれだからである。(略)けれども外延的には、浮気は利点をもっている。あらゆるものを相手に浮気できるからである。しかしほんとうに愛せるのはただひとりの娘だけである。恋愛というものを正しく理解すれば、(たとえ混迷の時代にあっては、欲望が移り気な男の目をくらまそうとも)足し算はすべて引き算であり、加えれば加えるほど引いてゆくことになる。(『現代の批判』)

キルケゴールの現代の批判は、後世との関係で言えば、特に大衆批判論の先駆的作品として知られている。信仰者の単独性を強く重んじる彼の立場から言えば、一般大衆や、教会に属して生活する人々の姿は、本来あるべき姿を逸脱しているように思われた。じっさい、彼の半生はデンマーク教会との闘争に費やされている。 世俗の人々(教会人を含む)がくだらないおしゃべりに時間を費やし、神と直接に向き合う機会を逸していることを、キルケゴールは本書のなかで厳しく批判している。

「現代の批判」は、匿名の小説『二つの時代』に対する書評という形式をとっている。小説のなかでは、革命の時代と、現代(といってもキルケゴールの生きた19世紀中盤)とを比較して描いている。キルケゴールは端的に言う。「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃えあがっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代である。」

もちろんキルケゴールは情熱的な革命の時代を賞讃しているのである。情熱の発散として考えられる情熱恋愛のなかには、情熱的な放蕩も含まれる。放蕩は世俗的には忌み嫌われるが、それが情熱的になされ、悪であることを積極的に選び取るのであれば、それも情熱の一部である。

翻って、現代はどうか。現代は、善を行使するでもなく、悪に一直線に落下していくでもなく、そのどちらでもない、一時的な快楽のために、瞬間の燃え上がりのために、浮気が横行して、各々が自らを低くしている時代である、とキルケゴールは言う。浮気は、「本来的な」恋愛からほど遠い、というのが彼の結論である。

映画『ハンナ・アーレント』で助平そうなオヤジとして演じられたマルティン・ハイデッガーは、この一節をどう受け止めたのか。それはまったく定かではないが、アーレントとの不倫関係が結ばれる以前の1927年に刊行された『存在と時間』のなかで、彼が現存在の頽落的形態として「ひとdas Man」について論じ、そこから逃れる本来的あり方について論じたのは、この「現代の批判」に影響されてのことである。

 

ベッキーの話をしよう。ベッキーと言えばぼく(ら)にとっては依然として「おはスタのお姉さん」であり、彼女がポケモンのコーナーの最後に言う「Pokemon the world♪」のやたら流暢な発音は、いまでも脳裡で再生可能な代物である。それ以降のベッキーについては、まあ興味ないと言えば興味ないのだが(テレビ観ないから)、それでもベッキーに対する高い好感度の根底には、いつだってあの「おはスタのお姉さん」がいた。たまにつけるテレビにベッキーがいたりすると、それだけで何となく嬉しい気分になる。

ゲスの極み乙女の川谷がどんな猟奇的なキスをしたのかと思うと憤懣に堪えないが、それについてはいまは措くことにしたい。

 

当初、浮気について肯定的、ないし同情的に書こうと思った。

そもそも、浮気に対立させられているような「本来的な恋愛」があるなんてことは考えない方がいい。それは「本当の自分」がどこかにいると考えるくらい無意味で、不毛で、徒労であって、かえって自分がいましている恋愛を見失わせるだけ。

愛と恋を区別するとか、恋愛と浮気や不倫を区別するとか、そういうのは言葉の遊びなのであって、好きになってしまったら、もうどうしようもない。ぼくは、できるならば浮気されたくないと思うけれども(誰だってそうでしょう)、まっすぐ続いてゆく人生の片隅に、こっそりと聖域をおいて、そこを善悪の彼岸にしておきたいという思いがあるなら、それはそのひとの人生のためにも、責められないのではないかなと思う(そのばあい、墓場まで黙って持っていってほしいけれど)。

人生には、自分だけに再生できる恋愛ソングみたいなものがあるんではないかな。

そういう意味で、ぼくは浮気を一概に責めたいとは思わなかった。そして、「愛」の宣教の名のもとに浮気やその他の日陰の関係を排除しようとするひとがいるなら、それに反対したいと思った。愛の王国にもし浮気や不倫の余地がないなら、その愛はいったい何なのですかと。

ーーああ、これが恋だ

正も誤もない

これが、恋だ

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ところがキルケゴールはなんと的確なのか。

「ほんとうに恋するものも、ほんとうの遊蕩児も、浮気をしているとはいわれない。浮気は可能性とのたわむれだからである。」

可能性との戯れとしての浮気。どれくらい多くのひとが、可能性の魔に魅入られてきたかはわからないけれど、時々、人生がたった一つしかないことに、耐えられない思いをしたことはないか。

「人生一度。不倫をしましょう」という触れ込みで拡大した不倫SNSがあって、最近そのサイトがハッキングされて登録アカウントが大量流出するという事件があって、まあ、ある種の勧善懲悪みたいなかたちで受け入れられたきらいがある。

「人生一度。(だから)不倫をしましょう」という理屈は、常識的に考えて荒唐無稽の極みなのだけれど、まさしく人生が一度しかないことに耐えられない人間には、訴求するコピーだったように思われる。だから、浮気や不倫というのは、本質的に言って、人生が一度きりしかないという事実に対するいとけない抗議だと言える。

ぼくには、読書というものも、他の人生を知りたい、他の人生を生きたいという欲望に突き動かされている点で、浮気や不倫に通じるものがあるのではないかという気がする。恋愛漫画なんて、その最たるものではないかと思っている。

それと対比的に捉えるのであれば、「本来的な」恋愛というのは人生の一回性の肯定であり、唯一無二としての恋愛の選択である。その選択はじゅうぶんに引き受けられるものでなければならない。浮気をする人間は、この選択の不安に耐え切られずに逃亡して、そうでない可能性を夢想したがるものである。

それはただの幼さ、成熟の拒否だけれど、この社会に、あまりに多くの可能性が溢れているように見えることも、その傾向に拍車をかけている。

では、どうすれば、その可能性との無限のたわむれから逃れられるのか。ぼくにはいまひとつの道筋を素描してみることしかできない。

はじめのうち、人生がたった一つの選択肢でしかないことを憂えて、無限の可能性と戯れようとしていた者も、次第に、そのたった一つこそ、実は完全に掴み取ることの困難なものだったのだということに気付くのではないか。そして、それに比べれば、無限の可能性というのは、どれほど安易で手に入れやすく、だからこそ逃れていきやすいものかということに。

だから、あるステップを辿らねばならないのだと思う。はじめ、ひとはたった一つを選び取るという無限の責任に怯え、そこから逃れて無限の可能性に走ろうとする。ところが、その無限の可能性を背景にして、ふたたび一つのものを選び取るということこそ、真に困難であるからこそやりがいのあるものなのだと気付き直す。すなわち受け取り直しのステップである。

ベッキー、だからあなたにはこれからも歩むべき道がある。頑張ってほしいベッキー

だがゲス川谷、てめーは駄目だ。

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