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阿部和重の『アメリカの夜』がどういう感じの小説か

文学

昨日の投稿で、夢(夢よりも仕事について語るほうがもっとマトモだった気がする)がたとえ叶わなくとも、「問題は、むしろ、その夢を諦めたとき、どういう新しい道を選ぶか」、あるいは、どういう気持でその新しい道に向き合うかということが大切ではないか、という旨のことを書いたので、その延長に阿部和重の『アメリカの夜』を読む。

 

夢とその挫折……そこからの再起。この小説がそういう過程を描いているというわけではない。そういうベタな感動を誘うような小説ではまったくない(別種の感動には欠けていない)。この小説は書くことの困難をめぐって展開しており、ひじょうに思弁的な内容を含み、それでなくとも柄谷行人蓮實重彦のような批評筋に対する言外の暗示を含んでいるため、決して単純な語りには回収されない。したがってこの小説を論じるのは、かなり小説を読み慣れ、文脈性の高い説明が可能な人物であることが多い。

が、そういう説明はぼくには手に余る。くわえて、ひじょうに表層的な読み方をすれば(表層批評宣言!)、この小説は、アート系の人間の特別になりたいという自意識が、狂気にまで至るか至らないかにまで肥大してゆくさまを諧謔的に描いた作品であり、相当笑える作品である。そういう単純素朴な読み方を小説は許容している。主人公の中山唯生とはどういう人物か?

中山唯生とは、そんな男である。どんな男なのか。いま目前にあきらかなのは、その男は「特別な存在」などではなく、それを憧れている、その意味ではまことに「普通の人物」であるという、単色で描かれたのっぺらぼうな彼の表情のみだろう。

映画学校に在籍していた唯生は、まずもって「映画のひと」であった。だがそれは彼が「映画の申し子」であるとか、「映画的才能を秘めた存在」だとか、そういうことを意味しているのではない。「だからここでいわれる「映画のひと」という言葉は、たんに「映画好き」であってもかまわないのだろう。」

だが唯生自身は自らを「映画のひと」であると自覚している。つまり彼は、ある程度までは一介の学生以上のものではなかった自らを特別の存在と見做すことの不毛を自覚しながら、それでもいっそう「特別な自分」を確信してしまう、そういう哀しい屈折した自意識の持ち主である。

 

こういう屈折した自意識は、少なからず多くのひとに思い当たることではないかと思う。自分がただの○○ファンであるにすぎないということに気づきつつ、それでもその対象を好きな自分が、じつはその対象のほうから見初められた特別な存在なのではないかという選民思想に目覚めてゆく。

本当を言えば、それでも別に構わないのであるが。たとえば芸術にしても、それがすべて一部の天才によって担われているのではなくて、大半は特別でありたい(ありたかった)ひと、たんにそれが好きなひとによって担われるものである。社会というものは、選ばれた特別な存在よりは、たんに「やりたい」ひとを率先して選んでゆく、そういう風にできているのではないかと思う。その意味で、「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我あり」の弊はむしろ、その芸術は特別な存在によってのみ創作されるという強い神棚意識が、自身の創作をどこまでも先に繰り延べていって、作り手の側に回らないという点にあるようである。所謂批評家ないしそのワナビーがしばしばそうであるように。

 

唯生はと言えば、依然として多くの「天才」たちの姿に自らを似せようとする「模倣のひと」であるにすぎず、その特別さの「しるし」をまず自らに見出そうとする。

たとえば彼はフィリップ・K・ディックの『ヴァリス』の主人公が備えている特別な「しるし」(ある出来事が彼に到来した日付の象徴性など)や、唯生と誕生日が同じジョン・コルトレーンが「神への小さな捧げもの」として創作した『至高の愛』についての解説を寄せ集めながら、自分もまたその種の神秘的な明証に裏付けられた「聖なるもの」と出会うべき存在なのではないかと考えるようになる。

だが自らを狂気にまで到達させることが困難であるように、自らを特別な存在にまで至らしめることが困難であることに彼は気付く。「狂気である」という言明が、その狂気に対するメタ的な意識を可能にして、その症状を客観視する助けとなるように、「特別である」という意識は、その特別さに対する無限の反省性を引き起こして、懐疑を誘ってやまない。「けっきょく、「根拠」ばかり追いもとめてみても、それは口にした瞬間すぐさま形を失い、それ自身として身をささえる柱をもたない、芽を出しては腐ってゆく根でしかない」のだと、彼は考える。

 

それに対して、彼が手に取る『ドン・キホーテ』は、それとは別の道を彼に示す。ドン・キホーテは言わずと知れた、騎士道小説を模倣しているうちに小説の世界に入り込み、狂気のひとにまで至る人物であるが、この小説を彼は「倫理の書であり啓示だ」と受け取る。

特別さを求めながらも自分が他人の物真似でしかないということに怯えるよりも、模倣を突き詰めた挙句に狂気に到達するという道を提示されることのほうが、はるかに彼自身の性分に合っていたように思われるからである。

「特別」であることの条件をどの程度おのれが備えているのかを捜し出すのではなく、すでに「特別な存在」としてあるものを徹底して模倣すること。やはり、それこそが自分を「気違い」へ、または「どれとも似ていないもの」へ、あるいは「差異」へ、さらには「単独者」へ、つまり「特別な存在」とよばれる山脈の頂点へと辿り着かせてくれるのではないか。

こうして『ドン・キホーテ』は模倣の徹底がオリジナリティに通じるという道を示す。しかしなぜこの書は「倫理の書」であるとまで言われるのか。それは、一方には模倣をつきつめて狂気にまで至るドン・キホーテがいるのに対して、それへの懐疑をつねに突きつけるサンチョ・パンサという存在が他方にあるからである。両者は各々、特別さと日常性とを代表していると言える。

特別さというものをおよそもたないサンチョ・パンサが、ドン・キホーテと「しっかりとかみあう」瞬間、それはドン・キホーテの死の瞬間である。彼はそこでそれまでの特別さから日常的な世界へと回帰してゆき、自分が騎士ではなかったことを認めるに至る。特別さに対する英雄的な邁進が、終局的には日常性の側に回帰するということを作品全体において証言している、そのような点において、『ドン・キホーテ』は倫理的なのである。

倫理、それは「特別」であることから離れて、「日常性」の側へと赴くものに必要とされる「死」の覚悟である。

その死とは、文字どおりに生命の途絶えばかりを意味するわけではない、いわば「実存的」な問題にかかわる、あらゆる形式化の果てに残されたものを最終的に放棄した瞬間にしか獲得することのできない、見るものすべてが未知である、「人間」から生まれかわった赤子のもつ無垢な視線がたえず感じる、「かつてあじわったことのない深甚な」緊張なのではないか……

 今日はこの一節に辿り着きたくて書いてきた。これは、ぼくがキルケゴールのなかに勝手に見出している倫理、すなわち「人生の跳躍を歩行に変え」る倫理と同じものではないか、とこれまた勝手に思っている。そしてこれが、ある夢に向かう道を離れて、それと異なる道筋を歩み始めるために(あるいは、それをただの夢ではなく現実に変えるために)必要な倫理なのではないかと思う。

唯生自身は、この感想について、「自分は八〇年代について書いてみたつもりなんだが」と述べている。文脈からすると、これは『隠喩としての建築』その他の柄谷行人の言説をいくらかなりと基にしているようだが、ぼくは彼が日常性の倫理云々について語っていたか定かでない。

 

ところで、キルケゴールの「跳躍」と「着地」についても、言うは易いが、行うはあまりにもかたい。ぼくにはキルケゴールの言う信仰の絶対性を相対化したいという底意があるので、実は跳躍よりもそのあとの着地の仕方如何のほうが重要なのだと見せかけたいのであるが、跳躍がなければ、着地はない。その意味で、信仰の絶対性そのものは決して和らげられるものではない。

もし跳ぶ前から着地することばかりに汲々としていれば、それは何事かに挑戦する前から失敗したあとのケアについて考えつづけるのと同じで、自分に対する防衛線を張ることになってしまう。その意味で、着地と歩行について語ることは、跳躍の力を弱めてしまう危険がある。

飛びきらねばならず、落ちきらねばならないという、この二重の困難を、いかにして解決すればよいのか? どこまで跳べば、落ち始めてもよいのか?

 

この小説でも、同じ問題に逢着している。

「特別な存在」に自分を仕立て上げるのは、いささか馬鹿げているようにも思われる。だが、初めから日常を選ぶのでは、ドン・キホーテ的な倫理には到達しない。その特別さに対する追求を極限まで推し進めた先でこそ、日常性に向かうことが許される。

実存の問題にしても、初めから実存というものに我々が出会いうると考えるのは、まったく馬鹿げている。それはたとえば、自分が生まれてからずっと特異な人間で、誰にも似ていないと考えるのと同じくらい、馬鹿げている。この社会は似たものにあふれていて、構造的であり、特異な実存の存在をまず否定するようにできている。ところが、実存と構造の関係というのは、後者による前者の否定があってはじめて駆動する。形式化されてゆく生の姿を率直に認めた末にその形式からの「切断」と「回生」があるのであって、実存の問題が始まる。それが「深甚な緊張」と呼ばれるのである。

この小説のなかでは、特別さの追求と日常性への回帰を処理するために、語りの構造に助けを求めている。すなわち、主人公の唯生は特別さの探求者であるのに対して、それを観察している語り手が別におり、彼は重和とかエスとか呼ばれる。この構造は前述のディックの小説や大江健三郎の『ピンチランナー調書』にあやかったものであると説明されている。

しかし、実は唯生が虚構内の存在であるということははっきりと述べられており、私=エスが自らを語るために作り上げたキャラクターである。この主体の分裂によって、ドン・キホーテサンチョ・パンサ的関係が一個の人間のなかに両立するようになり、それが上述の困難に対する小説的な立ち向かい方になっている。現実においては不可能な処理であるにせよ、このようにして、作品の主題と形式が見事な一致を見せ、さらに主人公と語り手の関係が途上において変転してゆくという展開にも欠いてはいない。そこにこの小説の見事さがあるとぼくは思う。

阿部和重の『アメリカの夜』はそういう感じの小説である。