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『読書の技法』

読書論

佐藤優。元外務省局の主任分析官で、鈴木宗男事件に連座して逮捕されるものの、その512日間の拘置所生活のあいだ、「学術書を中心に220冊を読み、抜き書きや思索メモなどを綴った読書ノートを62冊作」り、以後作家に転身、インテリジェンス(諜報部門)から外交関係一般、知的生活術から学生時代以来の関心の神学に至るまで、ひじょうに広範な著作を書き継いできたひとです。

本書は、年間300冊、多いときには500冊を読むという氏が、その読書術について初めて体系的に語ったもの。第一部「本はどう読むか」では、「多読の技法」「熟読の技法」「速読の技法」「読書ノートの作り方」について、第二部「何を読めばいいか」では「教科書と学術参考書を使いこなす」「小説や漫画の読み方」について、第三部「本はいつ、どこで読むか」では「時間を圧縮する技法」について語っています。

大雑把に言って、第一部が読書論概論に当たり、第二部はその応用編です。第二部では実際に彼がどのように本を読み、現代社会の分析に応用しているかを明らかにしているので、彼の思考をトレースしてみたいひとにはお薦めかもしれませんが、飛ばしながら読むのがちょうどよいでしょう。第三部は自らのライフスタイルを中心に、忙しいビジネスパーソン(これが本書の主なターゲット層です)がどう時間をうまく利用して読書するか、について書いている。ここはちゃんと読んでもいいと思いますが、氏の生活リズムは、5時起床で24~26時頃就寝というショートスリーパーのそれですので、自分には合わないと思ったひとは、あくまで他人の生活と思っておけば構いません。

 

そういうわけで、大事なのは第一部。熟読すべき本と、速読すべき本と、超速読すべき本に分けながら、貪欲に情報を摂取しつつも、熟読しうる本については、あくまで誠実な態度を保っているのが好感を持てます。つまり、たとえ年間300冊読むにしても、渾身の熟読をするべき本については、それにしっかり打ち込まなくてはなりません。

読書に慣れている人でも、専門書ならば300ページ程度の本を1か月に3~4冊しか熟読できない。複雑なテーマについて扱っている場合には2冊くらいしか消化できないこともある。重要なのはどうしても読まなくてはならない本を絞り込み、それ以外については速読することである。

でもこれ、切り替えのうまさがあって初めて成り立つことですよね。ぼくも数年前からは新書の類など、30分程度で読める本については速読で済ませるべきと考えていますが(とにかくたくさん本を読まなくてはなりません、これは間違いないことです)、最近自分の読書のクォリティが、熟読のときにも落ちたのではないかと感ずることがあります。速読になれてしまうと、熟読のときにもページを手繰る手が早くなってしまってしまう。ちょっと困ったものです。

そういうわけで、切り替えはぜひしっかりと。だけど、速読でもいいから、手広いジャンルの本を読んだほうがいい。ぼくは昔からショーペンハウアーの『読書について』に呪縛されていて、岩波文庫版のあの本のなかに精神の柔軟さを「発条」に喩えた個所があって(当時この言葉が読めず、辞書を引いたことを覚えています)、あまりに多く読書しすぎて、多くの負荷を掛けすぎた精神は、発条が重みに耐えかねて壊れてしまうように、その躍動を失ってしまう、と書かれています。

以来、読書は魅力であると同時に恐怖でもあり、いまでもそれは変わりません。ですが、読書を恐れていては(本当にひとはしばしば読書を恐れているようです)、自分がいまどこに生きていて、その生が何によって成り立っているのかを知る、歴史的地平を見失ってしまう。『読書の技法』のぼくにとってのメリットは、ショーペンハウアー的呪縛をいくらかなりと解除してくれたことにあると言えそうです。

 

さて、本技法の特筆すべき点を(仔細な熟読法や速読法を除いて)挙げるとすれば、それは、基礎から固めよ(教科書を読め)ということと、現在に繋がるような思考をせよ、の二つになるのではないでしょうか。

たとえば、本を「簡単に読み流せる本」と「そこそこ時間がかかる本」と「ものすごく時間がかかる本」の三種類に分けよというとき、みなさんなら、「ものすごく時間がかかる本」は何だと考えるでしょうか。

きっと、非常に専門的で、応用を極めた学術書、ということになるのではないかと思います。

ところが、氏によれば、「そこそこ時間がかかる本」は標準的な教養書であり、「ものすごく時間がかかる本」は、語学や数学の教科書である、ということになります。

つまり、基礎の基礎、ここさえ固めておけば、応用というのは、その型からある程度類推可能な本だということになる。これは、読書論としては、ひじょうにまっとうで、誠実な態度なのではないかとぼくは思います。じっさい、何の領域においても、学者や著述家たちが現在でもかかずらっているのはきわめて古典的な問題であり、もしその問題に通暁していなければ、たとえば哲学にはとても細分化した問題系が存在しますが、実はそれがごく単純な根っこを持っているということに気付くに至らない。だからやっぱり哲学であればプラトンアリストテレスを読まねばならないのです。

基礎体力が運動能力を決定するように、基礎知力が知的能力を決定する、と言っていいでしょう。

ですから、読み飛ばしてよいですよと書いた第二部でも、氏は「世界史」「日本史」「政治」「経済」「国語」「数学」にカテゴリーして具体的な知の活用法を説いています。これらすべてが中学高校で習うことに基礎を置いているわけですよね。義務教育を修了しているかぎり、我々は最低限の基礎知力を持っているといえる。しかしそれをずっと寝かせていて、使っていない。それをリブートさせるのが、知的な意味での出発点なのです。

そして第二の特筆すべき点は、現在に繋がるような思考をせよ、ということ。

重要なことは、知識の断片ではなく、自分の中にある知識を用いて、現在の出来事を説明できるようになることだ。そうでなくては、本物の知識が身についたとは言えない。

現代のニュースを見ていて、たとえば先日フランスで襲撃事件がありましたが、それに対するフランスの対応の仕方をどう説明すればよいのか。ライシテ(政教分離原則)というものがある。もちろんこれに議論をすべて回収させることは短絡ですが、ライシテにしても、それは教科書レベルのフランス革命の論点をまず把握して、それから20世紀初頭の政教分離法の問題、それから移民問題をめぐってのサルコジ政権の対応や、イスラム・スカーフをめぐって「共和国」の原理が大いに問われたその仕方くらいは把握しておかねば、理解は覚束ないということになりそうです。

これに関しては、まず読書して現実の出来事に対応するというよりも、現実の出来事が起きたときに、その表面的な状況に脊髄反射的に反応するのではなく、その根底にどういう歴史的経緯があるのか、それをその都度掘り下げていくほうが、現代生活者が歴史のなかに入り込む仕方として容易なのではないかと思います。

 

人生の有限さと、読書量の有限さは、うまい折り合いを付けにくいものです。

特に若い頃には、人生の有限さばかり目について、それなのにすぐに忘れられてしまうような読書の経験など、いったい何になるものか、と考えてしまう。それよりも、たくさんの実際上の経験を積み重ねたほうがはるかに有益ではないのか。あるいは、若い頃の読書経験は重要であると説得されても、今度は年を経るにつれて、書物の知識を発揮しうるような場がなくなり(加齢につれてひとはその種の競争から脱落しますから)、再び読書の無意味が目に付くようになってくる。

いったい、我々の人生が有限なものであるなら、この有限な生において、永遠の知なるものに到達することに、如何なる意味があろうか? こういうことをぼくは時折考えますが、それでも本を読むことをやめるわけではありません。

書物や、とりわけ所謂「虚学」的な書物(佐藤氏にとっては神学上の問題)に至上の価値があると言いたいわけではありません。むしろ反対に、書物やそれが与える知識は、生存とのかかわりで言えばもっぱら無意味なものと思います。しかし、生が有限であり、いずれはすべてが無意味の灰のなかに帰してゆくかぎり、この世の中に客観的に意味のあるものがあるとはぼくは思いません。

意味は各人が見つけていくものであるでしょう。そのとき、無意味の極みにあるような書物が、新しい輝きでもって現れてくるのではないでしょうか。人々が有意味であると過信しているような社会的営みに、ぼくは殆ど興味がない。無意味で虚ろなものとして放棄されていて、自分によって意味づけられるのを待っているからこそ、書物との付き合いはやめられないのです。