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肉体の狡知――三島由紀夫『美徳のよろめき』

文学

鏡子の家』は、読み物としてはそれほど高く評価しない。作者が登場人物に対して明晰すぎ、その宿命に至るまで見通しすぎている、というのが理由である。この小説についての作家の意気込み、同時代評の冷淡さ、三島の作品コーパス全体を見渡しての再評価、についてはwikipediaにも少し詳しく触れられてあるが、そのなかでは、佐伯彰一の評にある、1) この小説の四人の青年は作者の分身めいているが、相互にぶつかりあいなく、2) 作家の内部で閉じており、異質なものに侵入されるようなところがない、という感想に近いものを感じている。

ぶつかりあわないことを相互の同盟にしている連中にぶつかりあえと言うのは酷であるが、それにしても彼らの道筋は上り坂(第一部)と下り坂(第二部)が截然としすぎている。これは思想小説であるが、各人が対話によって思想を表明するというよりは、各人の人生(およびその破局)そのものが一個の思想の表明になっている。そのそれぞれがニヒリズムに対する一つの答えなのである。そしてそれは作者による四通りの答えであり、彼自身が辿りえた(辿りうる)道の一つ一つであるが(とりわけ峻吉の道は、のちの作者の道程に近いように思われる)、あくまで語り手は彼らから遠いところにあり、彼らの個別の行動を鳥瞰している。時には解説者の役割も果たす。

作家が執筆中に『カラマーゾフの兄弟』を意識したかは定かでないが、カラマーゾフに四兄弟があるように、『鏡子の家』の四青年は精神的な兄弟関係にある。夏雄の童貞はアリョーシャの純朴さを思わせはするが、だからといってこの小説にはスメルジャコフ的な人物はいない。そしてドストエフスキーの思想劇にみられるポリフォニー性が、この小説には欠けているように思われる。

三島は先の先、後の後まで見るひとであるが、ここではそれがあまりに明晰すぎる。19世紀の心理小説の方法が採用され、語り手が登場人物のなかに完全に入り込み、かつ自由に離れ、登場人物が見通していないことまで見通している。こういう心理主義を批判したのはサルトルであり、どこかでジュネットも言っていたように、けっきょくはその批判は狭量の謗りを免れないのではあるが、それでもぼく自身はと言えば、やはり心理主義的で、作家が神として登場人物の内面まで見通すような作品に対して、基本的に批判的である。そして『鏡子の家』の同時代的な不評は、それがあまりに見えすぎていることに案外その根があるのであって、時代はむしろ「見えなさ」の側に軍配を挙げたのではないか、それが『太陽の季節』における「だろうか」ではなかったか。

 

そういう意味では、57年に刊行された『美徳のよろめき』も、同種の心理小説の手法によって書かれており、さらに斉藤美奈子は『妊娠小説』のなかで大人の語り手が子供のように稚い人物である節子を観察しているような描写を批判しているのではあるが、それでもこの小説に関して言えば、必ずしも悪い印象は抱いていない。むしろ、十分に三島の傑作と呼べるのではないか。

確かにこの小説のなかで語り手は「知りすぎて」いて、倉越節子すら把握していない不倫の心情を語ってみせているのであるが、ぼくとしては、彼女の不倫する心理の狡知は、補ってあまるほど明敏であると思う。というより、彼女が自己について把握していないとすれば、それは彼女が無意識の活用の仕方を知っているからで、「彼女は知らなかった」というのは、それを知らないことで不倫をより円滑に身を任せてゆくための自己欺瞞の作法であるように思われる。

彼女は自分が、結婚する前に一度だけ口づけしたことがある土屋という男に恋していることに気付いたとき、まず、「道徳的な恋愛、空想上の恋愛」を始めようと決意する。それはつまり、肉体を介さない恋愛であり、土屋が自分に対して恋をしているらしいことのみを滋養にして、ありたけの甘美な空想に酔おうとするものである。彼の実際上の求めについて言うなら、「決して許さなければよいのだ」。

ここにぼくは彼女の狡知をみたいと思う。もっともこの最初の戦略自体が、ひじょうに愚かしいものであることは明らかで、それは間もなく、

許さなければよいのだという、節子が最初に立てた戒律は、しかし時折、根拠の薄弱なものになった。何故ならこの戒律は、もし土屋の心がそれを求めていなければ、忽ち根拠を失うからである。

と書かれることから明らかなように、次第に満足のいかないものになってくるからである。彼女は徐々に土屋に餌をちらつかせざるをえず、それで執心を強めていくのは彼女自身である。ところがこれは彼女の愚かさというよりは、自らを徐々に漸進させ、興奮を高めてゆくための智略であるように思われるのである。智略というよりはそれは、肉体の狡知と言うべきかもしれない。

同様に彼女は、数年ぶりの口づけを土屋と交わしたあとに、「いわれのないさびしさ」から久々に良人と寝たことで妊娠したとき、その口づけから子供ができてしまったかのように感ずるとともに、そこに懲罰的な意味を見出している。

不倫している女性が、何らかの出来事があったときに、それを自己に対する罰や暗示であるととらえる例は、たとえば『ボヴァリー夫人』にも見られて、確か子供が熱を出して倒れたときだと思うが、これを天罰と捉えてボヴァリー夫人は一度不倫から身を引こうとする。

ところが節子のばあいには、ひそかに中絶を果たしたあと、それを自らの果たした犠牲であると考えるにいたり、快楽を見出している。そしてこの「懲罰」はすぐさま報償を要求するようになるのである。

しかしこうして誰にも知られずに終ってしまう筈の沈黙の劇の空しさは、だんだんと節子に何かしら報いをねがう気持を育てた。こんな気持は、時と共に日と共に大きくなった。これだけ苦しんだのだから、どんな歓びも享ける資格があるような気がした。何を望んでいるのかはわからなかった。ただこれだけの犠牲を払って彼女が望むものは、決して罪にはならぬだろうと思われた。

こうして彼女のばあい、懲罰でさえもさらに快楽を屠るための道具になる。そのあいだ、彼女は誰かに相談したり、助けを求めるのでもない。良人も、土屋でさえも、彼女の快楽装置のなかでは本質的に外部にあって、彼女は彼女自身から快楽の源泉を引き出しているように思われる。自分で自分に罠を張っては、それを乗り越え、罰を与えては、それを乗り越える。それは自己自身との格闘である。そしてそれに都合のよいように、良人は寝てばかりの野暮天で、土屋はどうも彼女に興味のないような、不思議な人物である。

 

物語導入の次のエピソードは、この作品全体を語っているようである。

ある日彼女は友だちのあけすけな夫人が、数人の同性の友の前で、世にも天真爛漫な調子で、或る発見を報告するのをきいた。

「あたくし、黒子を発見したのよ。それも大きな黒子を。生れて三十年ものあいだ、自分でちっとも知らなかった黒子を」

夫人は大声でそう言った。ある晩、良人の旅行の留守に、ふとした気まぐれで、彼女は手鏡に移して詳さに調べ、襞のあいだにひっそりと眠っている、黒い木苺のようなそれを発見したのである。

しかし夫人はこんな慎みのない話を、たちまち人生的教訓へ持って行った。

「だから自分を知ってるなんて自惚れちゃだめよ。三十年自分と附合っていても、まだ知らない黒子が出て来たりするんだから」

 『美徳のよろめき』の全体が、この黒子探しなのであって、彼女自身が気付いておりかつ気付いていない(自己欺瞞によって気付かないふりをしている)肉体の狡知の発見の過程なのではないか、とぼくは言いたい。

したがってこの小説は三島の「肉体版、汝自身を知れ」なのであり、精神と肉体との対話が、節子の内部機関において果たされている。その意味で、良人も土屋も外部にいるのである。

そして語り手はどうかと言えば、節子の心情をはっきり知り抜いている語り手も、節子の内部にある対話からは、一歩離れた距離を置いているように思われる。節子自身が語り手に制約されていないのである。語り手の立ち位置から果たしうることはと言えば、彼女の問答をよりよく進めるための産婆としての役割に留まるように思われるのである(そしてこの産婆という語は、ソクラテスを指すだけではなく、節子の実際の妊娠と堕胎との間の文字通りの連関を見出そうとして選ばれた語である)。

節子が自らを覗き込むその妙のゆえにこそ、この小説は心理小説的なはしたなさから逃れているように思われる。