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姦通小説における妊娠・中絶はヒロインに対する懲罰か?――『美徳のよろめき』(つづき)

文学

もう一つ、『美徳のよろめき』の自然をめぐって書こうかと思ったが、うまく展開できそうにもないので止めておく。それよりも、この小説をどう説明するか、ということをちゃんとやった方がいいかもしれない*1

 

この小説の面白味(と言っては不謹慎かもしれないが)というと、やはり節子が作中で三度にわたり堕胎をすることで、これについては斉藤美奈子の言うとおり、いいから避妊しなさいよの一言に尽きるのであるが(その無責任さを考えると、彼女はぞっとする人物である)、この妊娠をどう理解するかというのは一つのカギになる。

ところでこの妊娠・中絶について、次のような論文がウェブで読める。

ここに、 「美徳のよろめき」の姦通に対する意識があらわれている。つまり、節子に官能をもたらし、目を開かせるような体験として姦通を描きながらも、その結末には妊娠・中絶という現実的な事態が待ち構えているという皮肉な視点がある。同時代の女性たちの解放感に共感しながらも、既存の道徳観念が依然として強固なものであることを語っているのである。節子に対する中絶という受難は、社会的・倫理的なタブーを犯した結果としての制裁である。

中元さおり「三島由紀夫「美徳のよろめき」論 ―〈よろめき〉 ブームから読む」

この論文は基本的にフェミニズム的な読み返しであるが、ある程度「性の解放」というフェミニズムにとっての「正しさ」に乗りつつ、とはいえ家父長制的な三島には「限界」があるね、という、模範的な位置づけの仕方であると言える。

しかし、なぜ「妊娠・中絶という現実的な事態」を描く語り手の目線が「皮肉な視点」とされるのかというと、これに対する十分な根拠はない。確かに、語り手は節子自身でさえ把握していない内心にまで立ち入る全能の立場にあり、語り手は彼女の無知に対して冷ややかであるという印象は完全には排除できない。だが、この語り手の立場が辛辣で指弾的なものではなく、むしろ彼女の行動は語り手によって「支持されている」ことは、論文筆者も認めているところである。それでは、「妊娠・中絶という現実的な事態」の描写は、なぜ「皮肉な視点」によってなされていることになるのか。

ぼくは、ここに、姦通小説において妊娠と中絶(あるいは産褥死)を描くことは作家(と彼が共犯関係にある社会)による姦通行為に対する制裁である、という予断の介入が働いているように思う。その予断のゆえに、一見彼女を好意的に描いていても、その先の「自然現象」としての妊娠を描く語り手には「皮肉な視点」がある、という結論が導き出されるのだと思う。

フェミニズムカルチュラル・スタディーズにおいては一種の定説があり、それによると、作家は時代の支配的な風潮(ここでは家父長制)に対して、ある程度までは反逆的であっても、ある線からは共犯関係にあり、権力構造の一部になっているのである。もちろんこの定説は間違ったものではない。自明であるとすら思う。だがここで妊娠・中絶=語り手による制裁とするのは、テクストからの逸脱ではないか。

ミシェル・フーコーによるパノプティコン概念の提唱以来、小説における「全知の語り手」をこの概念から捉え直す試みは少なくない(そしてそれに対するフィクション論的反論もある)。そこでは、見えない語り手の支配のもとで、登場人物の内面が拘束されることになる、と説明される。この捉え直しそのものには殆ど何の意味もないように思われるが、もし(男性であり家父長的である)作家はこの作品でヒロインの妊娠と堕胎を繰り返させることで、危険な姦通行為が必ずリスクを伴うものであり、懲罰を被らねばならないものなのだということを示そうとしているのであると言われれば、これは反論しがたいフレームワークになってしまう。語り手は節子の行為を明確に指弾することも称賛することもないので、その立ち位置の解釈は自由に与えられている。それに加えて、社会全体が不貞行為に対しては何らかの制裁的懲罰的な報復を要求していることは明らかであるようにも思われるからである。

 

だが性行為による妊娠というのは、それ自体は「自然」なのであって、道徳や法の問題ではない。もちろん、この二項対立をバトラー的に脱構築することは場合によって必要であるが、この作品の場合に必要なのは、妊娠・中絶がこの作品において「罰」であると語られ、道徳ないし法の領域に移されるとき、それは「誰」によって語られている罰であるのか、という点である。

前掲論文のばあい、この点が、姦通小説における妊娠・中絶は「語り手=社会による」罰であるという予断の働きによって、曇らされているのではないかと思う。しかし、この小説を読むとき、妊娠・中絶を罰として捉えているのは、明らかに節子自らである。

節子は或る暗示を、或る懲罰の意味をそこから汲んだ。思いがけない受胎であったので、意味のないものとは思えなかった。何かが彼女を懲らしめようとしていると思うほかはなかった。

これは一度目の(良人の種による)妊娠に気付いたときの節子の心境である。もちろん、節子自らが妊娠・中絶を罰と捉えているということは、問題を何も解決しない。既に述べたように、節子の内心を代弁する権利は語り手の思うがままであり、こうして節子が自発的に赦されぬ行為の罪深さに思い至るほうが、姦通の危険を読者に思い知らせるには好都合だからである。

だが、前回に述べたことだが、この節子自らによる罪業の把握は、彼女を立ち止まらせるのではなく、かえって欲望を昂進させるものである。「これだけ苦しんだのだから、どんな歓びも享ける資格があるような気がした」と彼女が言うように、「犠牲」に対する彼女の明確な憧れは、その犠牲を通じて何らかの報いを享けたいという、殉教主義的ヒロイズムによって裏打ちされているのである。

そこで、これも前回引いた個所であるが、町全体が停電に陥るとき、革命の予感のなかで、上流階級にある彼女が自らを彼らに粛清される「犠牲者」として思い描いたことを想起されたい。彼女のパーソナリティは明らかに自罰的傾向にあり、自分を叱る何ものかを求めている節がある。それゆえ彼女は息子に糾弾されることを夢想し、良人にすべてを打ち明けることを夢想するのであるが、もっぱら誰も罰してくれる者はおらず、彼女が彼女自らを罰する役割を果たし、その欲望は無意識に抑圧しているかのようである(フロイトの論文「子供が叩かれる」などを連想すべきだろう)。

もちろんこの観点は、けっきょく彼女を叱ってくれる「大人」を求める小児的人物のように造型して、ついには父権的なものに回収させんとする作家の意図によるものである、と言われるかもしれない。それならむしろ、この小児性は三島本人のファンタスムであると言ってもよいが、この点はここでは措く。

 

ぼくが言いたいのは、初めからこの懲罰主体を「社会」と同定してしまうと、節子のファンタスムの多産性を制限してしまう結果になりはしないか、ということである。彼女が妊娠・中絶を罰と捉えるとき、その懲罰の主体は、何も社会だけに限らず、彼女はむしろ聖なるものに触れるのである。

節子は浄らかな殉教的な気持になり、土屋の子の母としての職分を土屋のためになげうつということに、苦痛に充ちた喜びを感じた。それは恋人の役割を超えた自己犠牲であり、土屋が逆立ちをしても払うことのできぬ犠牲であった。その犠牲の、心に媚びるようないたましさと巨きさとで、節子は土屋を一歩抜きん出たように感じたのである。

これは二度目の堕胎のときであるが、殉教的態度を明らかにして、苦痛を歓びに転換させている。ここで妊娠・中絶は確かに「罰」であるが、節子に後悔させ、読者を恐怖に慄かせ姦通の罪を知らしめるものではなく、その種の社会規範を超えたところにある聖性に痛みのなかで交わろうとして呼び求められた罰なのである。

苦痛とそれに耐えている自分との関係は、何か光りかがやくほど充実していて、それがそのまま死の虚脱へつづいているとは思えなかった。節子がいて、苦痛がある。それだけで世界は充たされている。葬り去られる子供のことも念頭にうかばぬ。……もはや節子は、土屋の名をさえ呼ばなかった。

この明晰な法悦の感覚は、三島の愛してやまないマゾヒスム的なそれであり、決して社会の与えうるような懲罰行為とは似ても似つかない。社会そのものはまた別の経路によって、姦通がもたらす代償を示すに違いないが、『美徳のよろめき』におけるそれとは別物である。

したがって『美徳のよろめき』とは、一般の姦通小説とされるものがしばしば姦通者の懲罰を経ての改心へと向かう物語として造型されるのに対して、その妊娠・中絶の苦痛のある懲罰においてむしろ聖なるものを見出そうとする試みであり、社会的な規範への回収は、殆ど見せかけだけしか起こらない。この小説は、節子が「凡庸な性格を払拭して、非凡な女に」なるまでの過程を描いたイニシエーション的な作品なのである。

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*1:ところで、昨日のエントリでこの小説の節子は『鏡子の家』の鏡子の前身をなすといえるかもしれない、と書いたが、もちろん何の根拠もない話なのだが、そういうことはかえって突き詰めたくなるものである。鏡子には娘がひとりあって、その二人の家に四人の青年が入り浸っていたという設定。他方、節子には息子がいて、それに加えて、作中では三度堕胎を行うが、実は語りのなかで、以前に夫の子供をもう一人堕胎していることもわかる。世に生まれなかった子は、四人いるわけで、この数字の符合も、何か気になる。それで、『鏡子の家』の結末は、良人の帰宅と、「良き」秩序の回復であるが、『美徳のよろめき』では、最後まで良人は鈍感で妻の姦通に気が付かない代わりに、秩序の代行となり、「偽善」の徳を間接的に伝えることになるのは、彼女の父親である。