間奏曲の途中ですが……

ロラン・バルトがどこかで……というか、1977年のテクスト「音楽、声、言語」のなかで、次のように書いている。

ですから、音楽について語るのは非常にむずかしいのです。絵画について語ることに成功した作家は沢山います。音楽については一人もいないと私は思います。プルーストでさえ、例外ではありません。その理由は、一般的なものの分野に属する言語活動(ランガージュ)と、差異の分野に属する音楽とを結合することが非常に困難だからです。

音楽について語り始めるとき(もちろん歌詞ではなく音そのものについて)、ひとは外国語で喋り始らざるを得ない。外国語で話すというのは、プルーストが「優れた書物は外国語で書かれている」というのとはまったく異なる意味で、苦痛と困難を与えることになる。理屈が出ないのである。「それは良いね」とか「それは嬉しい」「それは素晴らしい」、「それはまさに驚くべき」、「それは恐ろしい」、「それは悪くなかった」こういう言い回ししか出てこない。

72年のテクスト「声のきめ」のなかでバルトは、如何にして形容詞で語ることを避けるか? という問いを問うている。情熱的だとか、静謐だとか、霊的であるとか、そういう諸々の紋切型の形容詞を避けることなしに、如何にして音楽に語りうるか、という問い。情熱や静謐や霊性や崇高は、あらゆるものを一緒くたにする一般的なものの言語活動であり、それに対して音楽は差異的である。

 

もっとも、心に思い浮かぶものを拾い上げるときには、形容詞が現れることにも利点はある。特に標題のしっかりした音楽のばあいには、楽想に身をゆだねて、その風景を描写してゆくのがよい。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「悲愴」。二、三人聴くと、スヴャトスラフ・リヒテルの演奏に行き当たる。リヒテルのものがよい。他のひとのでは少し遅い。リヒテルラフマニノフのピアノ・コンチェルトの2番が名盤で、最初のピアノの音から一歩一歩冥界に降りていく気持ちになる。好きだなリヒテル

絵画のディスクリプションだって簡単ではない。絵画のばあいはそこから得る情動よりも一か所一か所客観的な説明を加えていくほうがよいように思う。好きな絵を一枚選んで、ディスクリプションしてゆく作業。別に時間はかからないしタメになるから、このブログでもやりたいなと思っている。