『ゲゲゲの女房』とか。

人間というものは、自分が生きていることの実感をどこかで求めずにはいられなくなるものという前提のもとにお話ししますと、多くは、それを働くことに求めるのではないかと思われます。働くというのは、賃金労働をするという狭義で言うのではなしに、人間が何かの仕事をする、それによって自らの能力を外に表して、その産物を作り上げるという意味においてであります。込み入った話はしませんが、この点から言うと、賃金労働というのは「働くってなにさ……」という疎外された感情を与えないでもありません。*1

それでも私たちとしては、賃金労働の自転車操業のなかでも、少しずつ貯蓄を行い、あるいは家財をより良いものとし、あるいは家族を作り子を設けるかたちで、「私のもの」と呼べるものを増やしていきたい。いつの日か仕事に一区切りが打たれたとき、あるいはお仕事休みのとき、そういった所有(家族を含め)を見渡すことで、自分が働いてきたことの具体的な成果を見出すことができるように思います。こうしてここまでかたちを得てきたもの、これが私の人生であり、これが生きることの実感というものではないかと。長きにわたる苦労が、このとき、報いを受けたように思われます。この生き方のなかでは、「報い」は未来に得られるはずのものへと先送りにされてゆき、いつの日か「所有」というかたちで現れるということになります。

私はしかしいま、別のことを考えています。誰もいない空間でひとりでぽつんと椅子に座りながら、だれかが床に落とした洗濯用の粉末を眺めているとき、私は本当に何もしていない人間です。労働をしていない、ただそこにいる、このとき私は現在にいることを感じる。それはどこにも先送りされることのない現在、いまそこでそうしていることが何の報いとしても現れてくることがない現在のなかに、ふと置かれている。

そのとき私は何も所有しているとは思いません。本当を言うと衣服や住居やその他諸々はすべて私の所有に帰しているようですが、この無の感覚を突き詰めているかぎりは、私はそれらの所有から脱落しているように思われるのです。こうしたときに、たとえば、私は自分の存在を「与えられて」いるなどと考えたくもありません。私がどちらかというと恩知らずな人間であることもありますが、もし与えをその瞬間において感じてしまえば、そのために返礼をしなくてはならないという義務に私は駆られてしまいかねない。そうしたら、止まったはずの時間がまた動き始めてしまう。

私はこの無為のなかにひじょうな不安を感じ、その不安が絶えず何か外の世界の事物に「漂着」するように訴えかけてくるのを感じます。まるで私は何もしないでいるのでは、存在するのに十分でないかのような感覚が、つまりは寄る辺なさの感覚が、私のなかから外へと突き動かすように働きます。その不安に耐えながら私は、この無がきわめて死に近いものではないかと感じる。本物の死を知らないにもかかわらず、それに似たものだけを感じ取ることができる、これはとても奇妙なことではありますが、自分が無くなってしまう、という意識の危機は、生物に死のアラートを与えるのではないかと思います。

ここでまったく不思議に思われるのは、無=死が、かえって私を動かしているということです。思考というものが働き始めるのは、労働をやめて、この無にいささかなりとも近づいたときのことです。そして、まったく動かず、静止していたなかで、意識は活発に働くことをはじめて、鳴りやむことがない。また時間が動き始める。死が鳴りやまないというのはとても不思議なことでなりませんが、この能産的な死から、他のすべてが生じているようにすら思えてしまいます。そしてこの能産的な死に向き合うときに、生きていることの実感が逆説的にも得られるのではないか。

このことは私に楽観をすら与えるのです。エクス・ニヒロによってすべてが生ずるかのように語ることは、きわめて危険ではありますが、人間は様々なものを持ち合わせながら、ある瞬間にはそれらの所有から解放され、無に帰り、その無から新しいものをさらに創造してゆくのではないか。この無が突如として語りはじめることに私はいま軽い期待を抱いています。

*1:というのも、多くの場合、賃金労働は、自らが作り上げた具体的な産物を自らのものとすることなく、それを売り払った結果得られる抽象的な対価を得ることによって終わるからです。厳密に言うと、それは終わりではなく、その金銭はさらに別の商品の購入に充てられ、それを糧にしてまた労働が起こり……。こうした事態は、終わりのない連続のなかへとひとを落とし込み、ひとまとまりの労働の意味を希薄なものにしてしまいます。