「ピエロ伝道者」と「FARCEに就て」――牧野信一と坂口安吾(2)

ちょっとばかしお久しぶりです。前回は安吾の文壇デビュー作「風博士」(31年)と自伝的フィクション「勉強記」(39年)を扱って、作家の出発点について考えてみました。今回は、「ピエロ伝道師」(31年)と「FARCEに就て」(32年)を扱います。これらはデビュー時の安吾マニフェストと呼ぶべきもの。彼は最初ファルス作家だったのです*1

 

突然ですが、僕は笑いが好きです。生きていくための力だと思うんですね。お笑いが好きというわけではないのですが、それでもここ数年はちょこちょこ観るようになりました。あと『ルーキーズ』の作者の森田まさのりが連載してたお笑い芸人を扱った漫画『べしゃり暮らし』、まだ最後まで読んでないけど、めっちゃ面白いですよね。又吉直樹の『火花』もまあ面白かったと思いますけど、むしろ森田まさのり芥川賞をあげたい。

すみません脱線しましたが、ついでに言っておくと、残念ながら僕には笑いのセンスがない。こんなこと真面目に書いていれば世話ないですね。昔はまだ少しマシに笑いあっていた気もしますが、いまはもう駄目です。いつも退屈そうな顔をしています。それでなぜ笑いのセンスがないのかということを考えてみると、これはそもそも笑いに対する態度の問題ではないかと思われる。

それは、笑いは哀しい、という態度です。これは直観として、それほど間違ったものとも思われない。ひとがなぜ笑いを求めるかと問うなら、それはちょっとつらいことがあったときや、嫌な仕打ちを受けたときに、その笑いがカタルシス的な効果をもたらしてくれるからではないでしょうか。それは言ってみればいささか庶民的な処世術。昔の分類では喜劇が悲劇よりも下位にあって、悲劇の登場人物が貴顕の方々に限られるのに対して喜劇では庶民が登場しうるのでした。そこには転覆的な力があるにはありますが、その根っこにはやっぱり哀しみがある。そのことを、笑いについて書いていた哲学者、ベルクソンバタイユなんかは、あまりしっかりと見つめていなかったのではないか。ですけども、僕は三谷幸喜好きなんですが、彼の『笑の大学』(監督は彼じゃないけど、これが一番好きかな)なんかを観ると、それがはっきり示されている。

でも、あくまで哀しみは根っこにあるべきで、笑いがどこかで涙に帰結することはありうるにしても、初めから笑いのなかに哀しみを見出していたら、笑えるものも笑えなくなってしまう。これはもう非常に困ったことで、たとえば物凄く笑ってるひとたちと一緒にいて、「このひとたちはつらいことがあったから、こんなに泣きたいんだなあ」と考えていたら、笑うに笑えないでしょう。これはあまり健康的ではない*2。そうして年を取るたび、どんどん、泣けもしないのに感傷的になってしまう。若いうちは、『ライフ・イズ・ビューティフル』なんかを観ながら嗚咽を膝で抑えていてはいけない。

 

前置き長くなりましたが、坂口安吾は、「ピエロ伝道者」というエッセイのなかで、そういう「悲しき笑ひ」に断固反対する。ちょっと初めから読んでみましょう。

坂口安吾 ピエロ伝道者

空にある星を一つ欲しいと思ひませんか? 思はない? そんなら、君と話をしない。

屋根の上で、竹竿を振り廻す男がいる。みんなゲラゲラ笑ってそれを眺めている。子供達まで、あいつは気違いだね、などと言う。僕も思う。これは笑わない奴の方が、よっぽどどうかしている、と。そして我々は、痛快に彼と竹竿を、笑殺しようではないか!

 「空にある星を一つ欲しいと思ひませんか?」なんともロマンチックな書き出しではないでしょうか。その願いはしかし、夢物語のなかでは素敵ですが、現実に手に入れようとしたら、ましてや屋根の上で竹竿を振り廻して手に入れられると思っている男がいるとしたら、これは馬鹿なのであって、何やってんだよと笑わずにはいられない。

けれども、と、どこかで私たちの反省的な回路が動き始めます。我々人類というものは、いつも届かぬ夢を追い求める生き物ではなかったか。いつから自分はその夢を諦め、大人の振りをして生きていたのか。本当は僕も、あの男と一緒になって星を手に入れてみたいのではないか。こうして、ひとりの狂人まがいの情熱が、はじめは馬鹿にされながらも、次第に周りを動かしてゆく……感動モノの映画まであと少しです!

……そうじゃないだろう! これは実は「悲しき笑ひ」の罠なのです。戒めて安吾の曰く、

僕は礼儀を守ろう! 僕等の聖典に曰く、およそイエス・ノオをたずぬべからず、そは本能の犯す最大の悪徳なればなり、と。又曰く、およそイエス・ノオをたずぬべからず。犬は吠ゆ、これ悲しむべし、人は吠えず、吠ゆべきか、吠えざるべきかに迷い、迷いて吠えず、故に甚しく人なり、と。

 この素晴らしい一節、実は文意がいまひとつ読み取りづらくもあるのですが、こういうことかと思います。星追い男を笑う笑いには色々と動機もありもしよう。それを色々と詮索すれば、あなたの自身の苦悩も見えてくるかもしれない。あの狂人は、理想と現実のはざま、欲望と自制心とのはざまで苦しむ、あなた自身のもう一つの姿なのかもしれない。しかし、それが何だと言うのか。それを嘆き悲しんでどうする。面白ければ、あなたは笑っていればいい。あなたは悩める生き物で、それ以外ではありえないのだから!

「勉強記」の終わりに、「迷う心のあるうちは、迷いぬくより仕方がないと痛感した。」という按吉の述懐があることを想い出せば、これは一層わかりやすくなります。俗人は、欲望に振り回され、それとともに生きることをやめられはしない。犬が吠えれば、それは哀しい気持ちを表しているのだろうが、人間は、吠えるか吠えないかさえ悩み、悩んだすえに吠えることができない。そういう葛藤こそ、人間を人間たらしめているんじゃないか。

だからそれを含めて笑えばよい。無理やり是非に及ばせようとせず、悲しんでみせたりせず、笑うことでそれを受け入れる。そして竹竿を持つ男は、やはり己の思うがままに突き進めばよい。それがお前の高貴さではないか。

 

こうして安吾は、笑いの無根拠さを肯定する。というか、安吾ははっきりと笑いの根底に哀しみや悩みがあることを見通しているのですが、「涙を飛躍しなければならない」とはっきり言ってみせるのです。

日本のナンセンス文学*3は、悲しき笑いに満ち溢れている。「しかし、人を悲しますために笑ひを担ぎ出すのは、むしろ芸術を下品にする。笑ひは涙の裏打ちによつて静かなものにはならない。むしろその笑いは、騒がしいものになる。」と言って、安吾は批判しています。

そして、ドン・キホーテ! 安吾を読むときにも牧野を読むときにも、何度も彼の名前が特権的なものとして現れてくるのです。それはドン・キホーテが誰よりも空想と現実の桎梏を生き、それを「飛躍」することで私たちに笑いを与えてくれるからです。それなのに、そこに哀しみを見てどうするのでしょう。星を追う男は、如何にもドン・キホーテ風の造形ですが、これを「最も悲しい文学である」などといって称賛することは、笑いの肯定的な力をふいにしてしまうのです。それが涙を振り絞ることがあるにしても、それはあくまで自然なものでなければならない……

 

翌年の「FARCEに就て」でも、安吾は同じことを言っているのです。安吾は、空想と現実を切り離されたものとして見做す考え方をはっきりと批判して言っています。空想とは、我々人間が現実に生きているからこそ抱くもので、現実の一部ではないか。それが矛盾し食い違うというのは、人間の本質的な在り方に他ならない。

坂口安吾 FARCEに就て

大体人間といふものは、空想と実際との食ひ違ひの中に気息奄々として(拙者なぞは白熱的に熱狂して――)暮すところの儚ない生物にすぎないものだ。この大いなる矛盾のおかげで、この箆棒べらぼうな儚なさのおかげで、兎も角も豚でなく、蟻でなく、幸ひにして人である、と言ふやうなものである、人間といふものは。

私たちの矛盾的な在り方を、すべて同一平面上において、夢も空想も、狭い意味での現実も何もかもを、均等に扱ってみせることに、ファルスの肯定的な力がある、と彼は言います。現実と夢想のあいだ、笑いと涙のあいだに上下関係を置かず、すべてが矛盾するままに、その矛盾を受け入れてみせようとする。

ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しやうとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャ/\であれ、何から何まで肯定しやうとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。

これはもう殆ど意味がわからない。ほとんどナンセンスだと言うしかないような地点にまでたどり着いているのですが、しかし完全なる破綻には至らないところで、生の絢爛たるさまを描き出してみせる。それこそが、苦悩の果てに安吾の辿り着く境地であり、この(反)弁証法的な笑いの弁証法を、「生に至る病」であると言ってみたいと思います*4キルケゴール死に至る病を絶望であると言いましたが、同じ絶望を根拠に持ちながら、そこからもう一度跳躍してみせるところに、笑いという生に至る病が現れてくるように思われるのです。

 

どうもナンセンスな文章を書いてしまいました。そして僕自身、このような笑いの破天荒さに殆ど恐れすら感じるほどなのです。初めに述べましたように、僕はかなり「悲しき笑い」のシンパですし、涙を跳躍して、笑いを無底の境に至らせるには、非常な努力が必要であると思います。やがて哀しき道化業……ということになってしまうかもしれません。しかしそれでも、安吾の言う笑いは、如何にも高貴なものだと思います。

夢も現実の一部であると言うのは、言うだけならたやすいことですが、それを貫き通すのは非常に困難で危険でさえあります。空想も度が過ぎれば狂気になり、ドン・キホーテのように両者の区別ができなくなってしまうのは、取り返しのつかない途にも思われます。それでもなお、夢を現実として生きうるのであれば……ああ。

 

解決のつかない葛藤に悩まされてしまいますので、今日はこのあたりでやめておきましょう。今回はまったく牧野信一が出てこなかったので、次は、牧野信一坂口安吾、二人の奇妙な友情について考えられたらなと思います。

*1:ファルスと言うと、精神分析ではペニスを意味するようですが、それではなく、悲劇とも違えば喜劇ともやや異なる、荒唐無稽で一般にはかなり低く見られているジャンルを指します。安吾に曰く、「仮りに、悲劇、喜劇、道化に各次のやうな内容を与へたひと思ふ。A、悲劇とは大方の真面目な文学、B、喜劇とは寓意や涙の裏打によつて、その思ひありげな裏側によつて人を打つところの笑劇、小説、C、道化とは乱痴気騒ぎに終始するところの文学。

*2:いま気付きましたが、このラフな文章はつい最近読んだ本の文体の影響をモロに受けています

*3:当時、井伏鱒二と中村常吉がペソコとユマ吉というモダンガールモダンボーイを主人公にしたナンセンス読み物を欠いていたそうです。機会があれば読んでみたいですね

*4:「肩が凝らないだけでも、仲々どうして、大したものだと思ふのです。Peste!」と言って安吾はこの文章を締めくくっています。Peste!ってどういう意味なのでしょうか? それが病としてのペストを指しているのだとすれば、非常に奇怪ではありますが、笑いの持つ病的な力をここで彼が意識しているということになりますまいか。