バルトーク・オペラ

『青ひげ』という民話がある。シャルル・ペローによるもので、実在の人物であるジル・ド・レやアンリ八世をモデルにしたのではないかという説がある。ミシェル・トゥルニエには『聖女ジャンヌと悪魔ジル』という作品があって、このジル・ド・レがどういう人物なのか、ジャンヌ・ダルクと交錯する生のなかで、うまく描いている。短いので読みやすい。

簡単に言うと、青ひげというのは、妻を結婚するたびに殺した殺人鬼で、新妻に部屋の鍵を渡したまま旅に出たあと、彼女が前妻たちの死体を発見したことに怒り、殺そうとする。ペロー版とグリム童話版で細部に違いはあるが、結局、新妻の親族が助けにきて、彼女は救われ、青ひげは殺される。

大量殺人鬼は、なぜ妻を殺したのか。彼は芯からのサディストで、愛と嗜虐を同一視するような人物だったのか。ジョルジュ・バタイユを始めとして、多くのひとがこの人物に魅せられ、その心理を解明しようと試みている。ヘルムート・バルツというユング派の精神医学者に、『青髭―愛する女性を殺すとは? 』という著書があって、未読だが、確かに(多くの民話がそうであるように)精神分析的なテーマに満ちている。

 

ところが、台本ベラ・バラージュ、作曲ベラ・バルトークによる『青ひげ公の城』では、前妻たちは殺されない。先月パリのパレ・ガルニエにて、このハンガリー産のオペラが、クリストフ・ワリコフスキ演出のもとで上演されたとのこと。ぼくはそれをテレビで観たので、ここに観たことを記している。

特筆すべき点は、このバルトークのオペラが、ジャン・コクトーの脚本をプーランクが一幕ものにしたオペラ『人間の声』とセットになっている点である。本来ならば繋がりのない両作品を、両劇にコクトーの映画『美女と野獣』を挿入したりするなどして、対比的に際立たせようとしている。

コクトーの作品は、『声』という題で、マルグリット・デュラスの『アガタ』と一緒に渡辺守章訳で光文社古典新訳文庫に入っている。女性が電話先の男性に話しかけつづける、シンプルな劇だが、二人の関係の破綻の由来であるとか、果たして電話先の相手はいるのかとか、精神病理的な関心の深い作品である。ちなみに、今回のオペラでは結末は変わっている。

ただその話はすまい。肝心なのは、『青ひげ公の城』が男性の秘密を、『人間の声』が女性の秘密を少しずつ露わにしてゆく過程になっているということで、その奥には、当然のことながら、決して触れてはいけないものが隠れている。

 

先に述べたように、バルトークのオペラでは、青ひげは前妻を殺さない。ユディトというのが彼の新妻だが、それを演ずるエカテリーナ・グバノヴァは、率直に言うと不美人で、とても青ひげ公の犠牲になるような女性には見えない。どちらかと言うと、玉の輿に乗ってやってやったぜと息巻くアメリカのセレブ志向の女性のようですらある。

旦那のほうは、相当深刻である。愛に飢えているとしか思えないその男は、「何も聞かず、ただ愛してくれ」と懇願する。しかしユディトは好奇心を隠さず、城のなかで隠されている七つの部屋を見せるよう求める。

七つの部屋は、移動式のガラス部屋になっていて、それが一つずつ舞台に現れてくる。一つ目は拷問部屋、二つ目は武器庫といった、非常に暴力的な部屋。血が滴っており、恐怖を掻き立てる。三つ目の部屋は宝石部屋だが、これも血が。どうもどの部屋にも流血沙汰の臭いがする。四つ目は花園、五つ目は広大な領地、と、初めの陰惨さが徐々に和らぎ、美的なものに変容していくのがうかがわれる。初めの二部屋が彼の外面的な男性性であるとすれば、徐々に我々は彼の内面のなかに侵入してゆく。

それは幼少期の記憶への遡行でもある。「ごらん、これが私の領地だ、美しく、広大じゃないか」と言って青ひげが差し出すのは、スノードーム(ガラスの球体のなかに小さな建物やモミの木があって、揺らすと雪が舞い散る、あれ)である。傍らの映像では、彼の少年時代と思しき子供が、それに目を輝かせている。

六つ目は涙の湖。ここで舞台上に実際に子供が現れる。ユディトは恐怖をあらわにしているが、もはや引き返すことはできない。彼女は理解する、どうしてここにこれほど血があふれているのか、それはあなたが前妻たちを殺したからに違いない、噂は本当だったのだ……と。

七つ目の扉が開かれ、三人の前妻が現れる。しかも、彼女らは生きている。朝の女性、昼の女性、夕べの女性であると説明され、ユディト自身が、夜の女性になる。「もはや夜しかない……」と呟きながら、青ひげはスノードームを眺めている。

 

ここまで幼少期に遡行したのであるから、この前妻たちを母の形象であると捉えても、必ずしも誤りとはなるまい。記憶をガラス張りにして、すべてを覗き込んだ先には、殆ど幼児退行したような青ひげがいる。中々これをマザコンと言ってしまっては元も子もないのだが、あらゆる女性が母の投影で、しかもどれひとりとして母にはならないから、とっかえひっかえするような、そういう心境が表れているような気もする。

とはいえ、ここに母を見出すことには、それほどの魅力を感じない。それより、なぜペローの原作では前妻たちを殺して、バルトークのオペラでは殺さないか、これが気になって仕方がないのである。なるほど、コレクション的欲望(それは七つの部屋の一つ一つに顕著である)が非常に小児的で、女性をもコレクションの対象として捉える変態心理であるともいえるが、だとするとぼくはむしろその変態心理は非常に普遍的なものだと思わざるをえない。

記憶のなかには、いつも過去の恋人の面影が生きている(男でも女でもよい)。ユディトの姿は、ぼくには玉の輿セレブに見えるが、彼女も彼女なりに青ひげを心から愛しているに違いない。そして彼女は彼が自分だけを愛していることを願ってやまない。そのような一対一の関係に、秘密などあってよいだろうか。いやよくない。いや実はよいのである。もしその秘密をのぞこうとすれば、あらわになるのは、恋愛の不可能性である。過去は殺されるものではなく、どれだけ抑圧されても、絶対に生きている。青ひげはそれを神経症的に抱えた人物であり、陰気な城を晴れやかにして彼を救えるのは自分に他ならないとユディトは信じているようだが、そうではない。それは誰にも救いえないものである。