赤ちゃんはどこから来るの?
つまりぼくらは非常に激しい環境破壊のただなかを生きているわけ。もし次の世代が生まれたとしたら、彼らはどう思うか。恨みに思うね。どうして自分たちをこれほど過酷な環境に産んだのか。でも、いま以上に地球環境を改善することはできない。人類は地球を使い潰して生きていくしかないから。だからぼくらのいますべきことは、後々の世代の苦労をなるべく軽減すべく、いまのうちに地球を完全破壊すること。そうすれば、人類最後の日を迎える責任は、ぼくたちか、まあ悪ければ次の世代に担われることになって、こういう因果が延々と続くこともない。だから、地球は使い潰す。子供は産むなら、なるべく苦労を背負わせない。これに尽きる。
こういう話を、高校に行く途中のキツい坂道の途上(上り(登校)か下り(下校)かは覚えていない)でしたことを覚えている。多くのひとが、くたばれと思ったのではないか。その気持ちを大切にしてほしい……
後の世代に苦行を負わせる覚悟ができたのか、それとも、地球環境を改善するための劇的方法を発見したのか、いまは子供を持つことにポジティヴである。それともそのいずれでもなく、川上未映子の小説の登場人物みたいに、「色々あるけど、こっちの世界もまあ悪くないわよ。はやく生まれてこい」と微温的なことを冗談めかして言う気になってしまったのか。
地球全体のことを考える視野は(別に高校生の時分にだってなかったが)消え失せた。いまは、それなりにエゴイスト的な理由から、子供が欲しいだけである。見てみたいから。それくらいかもしれない。エゴイスト的でない理由を挙げるとなると、兄上の交際に関して去年軽い騒動があったときに、思いのほか親父様が孫の姿を見たいらしいと知ったという、そういう要素もなくはない。
しかし、本当に欲しいか? 子供。たんに、「世間の幸せ像」みたいなものに流されてしまっているだけではないのか、という警戒心がある。
子供の何が恐ろしいか。まったくそれがどういう子供に育つか、想像がつかない。これである。
まあちょっとバカに育つくらいならよい、ぼくより明らかに賢く育つのでもけっこう、しかし性犯罪者には極力なってほしくない。バカみたいな男や女と付き合って、身を崩してほしくもない。というか将来的には14歳で初体験は当たり前! みたいな状況になっていたら(いまどうなっているのかは知らない)、全力で止めたい。『コドモのコドモ』は映画館で観るだけにしたい。たとえば娘なら、できれば大学生くらいまでは清く正しい男女交際に留めてくれ、頼む……。
マンガとかだと、ちょっと心配焼きなお父さんが、「そうか……ウチへ連れてきなさい」と言って彼氏を呼ぶのが定番パターンで(『君に届け』みたいな。でも風早くんが来るならいいや)、だいたいギャグ扱いだけども、まじめに父親の身に立ってみれば、まことに恐ろしい。深夜にドンキに行くようなヤンキータイプだったら絶対追放する。
下らない妄想で済みませんが、これどうやって覚悟すればいいのか。息子は、そういう意味では楽だな……でもなんで楽なんだろう。息子、バカっぽいもんな。
はてブとかでは、ちょっと過干渉気味な父親が現れると、コメントで総叩きになって、「あなたが勝手に思い描く幸せは子供さんの幸せではありません。このブログをプリントアウトして病院行ってください」で終わるに違いない。だが待ってほしい。あの子が産まれたとき(産まれてません)、この子の幸せこそが俺の幸せだと確かに思ったんだ……逆もまた然り(然りません)。
子は、予測不可能な可能性である。親子の関係は、因果関係ではまったくない。親から、どういう子が生まれてくるかは、これはまったく分からない。それなら、親は子に責任を負わないはずである。子は個であって、親とはまったく別の存在であってみれば。ところが、そうはいかないのが、恐ろしいのである。
坂口安吾が、「不良少年とキリスト」で、こう書いている。
人間は、決して、親の子ではない。キリストと同じように、みんな牛小屋か便所の中かなんかに生まれているのである。
親がなくとも、子が育つ。ウソです。
親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てゝ、親らしくなりやがった出来損いが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。(「不良少年とキリスト」)
これは、ちょっとすごい。太宰治を追悼する文章のタイトルは、ここから来ている。子はみな、キリストと同じように、親がなくとも勝手に育つ。それを、変に親や家柄のことばかり気にして、それに振り回され、自分が貴族だの没落だのを言いたがる太宰は、不良少年にすぎない。
だから安吾のほうは(彼の親も土地の大名士だが)、キリストと同じ、親からではなしに、勝手に生まれてくる、と言う。親なんてむしろ邪魔ものなんだから、「親はあっても、子は育つ」。とすると、赤ん坊はどこからも来ない。それは無からやってくる、と言わねばならない。エクス・ニヒロ。
まあ、そう簡単にはいきはしない。ぼくがこの安吾の文章に注意を寄せられたのは、柄谷行人が『倫理21』の第一章「親の責任を問う日本の特殊性」で引いていたからである。
柄谷は、日本のように、子の責任を親が背負い、ひいては「引責自殺」まで要求されるに至るのは、おかしい、という至極もっともなことを言っている。親が子を尊重するなら、子の責任を親が背負うのではいけない。親は親、子は子と割り切るところが、個の自由を認めることの始まりであり、倫理の問いの始まりである。まあ、映画の『悪人』の樹木希林なんかは、たいへん日本的な人物だと言える。
これを読んだとき、なんとまっとうなことを言うのかという驚きと、思いのほか、俗流日本社会論みたいなことを言うのだなという驚きを感じたことがある。いま思えば、その二年後には『日本精神分析』も出版するし、まだ特殊(日本)を論じることで、普遍(世界共和国)に通じる、という態度を採っていた頃であり、また特殊(文芸批評)を論じることで、普遍(社会一般)を論じうる、という態度を柄谷氏が保持していた時期だから、それほどおかしくもないのだけれど。この章での、円地文子の小説『食卓のない家』の引用が、ぼくは好き*1。
親の意志と子の意志はまったく噛み合わない。子はよく、産んでほしいなんて頼んでなかった! と言うけれども(言うのか?)、親だって、別にそのまさしくお前を産もうとは思っていない。
出産というのは、ギャンブルの要素が大きすぎる。と思う。賭けだから、自由意志が効かない。たとえば、受精の瞬間を考えたまえよ。子をなすために、何度か性行為をするとして、どれが当たりかわからないじゃないか。ひと月、ふた月、経ってみないと、答えはわからない。
それで、これが神様のご意志にお任せしますというなら、それでもいいが、それなら全部委ねたいので、性行為する必要なんかない、いっそ、コウノトリが連れてきてくれればいいじゃないか。
自由意志と、運命の混合物。それが子供で、どういうのが出来上がるのも、その混合の配分次第で、それが恐怖。
だから、自我、意志、欲望を描こうとする近代文学の挫折は、だいたい子供を前にして現れるものである。『舞姫』で近代的自我が挫折するのは、その自我ではなんともならなかった、子供ではないか。『太陽の季節』だって、けっきょくは英子が孕んで挫折である。昔読んで(その馬鹿げ具合が)好きな小説に石川達三の『青春の蹉跌』があるが、それだってやっぱりそうである。
それが、自同律の不快だというのである。
埴谷雄高の小説『死霊』で、高志という登場人物が、次のように言うという話である。
人間が、正真正銘の自由意志でなしうることは、二つしかない。
一つは、何か。自殺である。
これは察知できよう。生きることは、もっぱら意のままにならないものであるから、それを終らせることに、自由意志の現れがある。
ところで、では、始まりはどうか。我々はもちろん、自分で生まれることを選んでこの世に現れたわけではないから、自分で自分を始めることは、自由意志の埒外である。
では、子を産むこと、新しい命を始めることはどうか。こんなもの、決して自由意志でなしうることではない。そのことはここまでつらつらと書いてきたかぎりである。
だから、二つめは、こうである、と高志は言う。子供を作らないこと。これが正真正銘の自由意志の発露である。
――まだほかに何か私達が自由意志で振舞えるのでしょうか?
――それが、できるのだ。まだお前は若過ぎて解らぬのだが、敢えていってしまえば、それは子供をつくらぬことなのだ……。
まあ、なるべくなら、親なんて「親らしくなりやがった出来損い」に過ぎないと、知っておくのがよい。出来損ないなら、得意分野である。度重なる破損より。