愛と夢

恋愛漫画のなかで、恋愛と最大のライバル関係にあるのは、夢ではないかと思う。そこで、躊躇いながら、検証すべき仮説として、次が挙げられる。

「良いラブコメには夢を持った主人公が必要である。」

どうだろうか? あまり確信できない仮説ではある。夢が恋愛とライバル関係にあるというのは、それが時には恋愛を高め、恋人たちの関係を向上させることもあれば、時には阻害することもあるからである。

事の始まりは、如何にして主人公を好きになるか? という点にある。だいたいにして、マンガを愛する人というのは、いくらかオタク的で、平凡で、何もできないわりに様々な可能性と戯れるために空想の世界に耽溺するものである。そういう人物が、自分が理想とする恋愛を思い描くとき、どうするか。どういう理由で、自分(が投影される主人公)が眉目秀麗なヒロインに愛されるに足るか。

一番安易なのは、何か特別な能力を持っている、という設定。異能者としての主人公である。この場合、しばしばファンタジー要素が付加される。典型的なのは『ゼロの使い魔』で、主人公はゼロ(無能)だからこそあらゆる能力を使えるみたいなチート能力の持ち主だったように思う。これは自分の劣等感を優越感に反転させるうまいやり方である。ジャンプのラブコメの礎石を築いた『気まぐれオレンジロード』は、主人公がテレポーテーションその他を使える特殊能力一家の出である。

もっと現実的な作品を志向するなら、主人公は何か夢を持っている。そして、これは現実でもそれほど変わらないと思うが、何か夢ややりがいをもって嬉々として語る人物を前にすると、それがかなり荒唐無稽な目標であっても、ひとはそのひとを好きになることがありうるのではないかと思う。

そして夢は時々、あるいはもっぱら、恋愛よりも大切なものであるから、純粋に空想的な恋愛を愉しもうとしてマンガを手に取ったひとも、夢とは何かということに向き合い、そこに成長の可能性が生ずる。ラブコメが情操教育を担う所以の一つである。

(ちなみにそういう意味では、『ニセコイ』の主人公は、ヤクザ一家生まれの公務員志望で、千棘もヤクザ生まれ、別に夢はないけど何でも万能タイプ、小野寺さんの進路への悩みが時々描かれる程度、なので、彼らのモラトリアム度は高い。)

 

この夢は、しばしば芸術系の夢である。『いちご100%』のばあい映画監督、『電影少女』と『True Tears』と『まほらば』のばあい絵本作家、確か『気まぐれオレンジロード』も父親が写真家なので主人公も写真家になるのではなかったかな? 『イエスタデイをうたって』の主人公リクオもやっぱり写真家を目指している。

逆に、小説家を目指す主人公というのはけっこう希少かもしれない。これは、映画監督なら映画撮影イベント、写真家ならフォトジェニックな女の子を描く、絵本作家なら絵本を物語のなかの紋中紋にする(『電影少女』の場合)など、マンガのなかで動かしやすいものなのに対して、小説がどこまでも孤独な営みで、たとえ主人公が何か書いていても、いまいち絵にならないという理由からではないかと思う。こういうところに芸術ジャンルのなかでの小説の地位低下の要因が潜んでいるのかもしれない。

もちろん、夢は芸術系にはかぎらず、学校の先生であるとか(『君に届け』の爽子?)、保育士であるとか(なんかあったな……)、何でもいいっちゃいいが、それでも芸術系が多いのは、1) 作者自身のマンガ家経験の反映しやすさ、2) 天才と凡才の葛藤、3) 文字どおり「夢」のある商売として、読者の憧れを引き起こしやすい、など様々な理由が考えられる。特に2は重要になるかもしれない。

夢が重要になるのは、それが主人公の魅力になると同時に、ラブコメの大概は高校から思春期の終わりごろまでを舞台にしているので、進路選択が問題になり、それを避けて通ろうとしないなら、何らか物語性のある夢を語らせないといけないからである。

 

しかし、同時に夢は恋愛を阻害しうる。それはたとえば主人公が自分の目標に打ち込みすぎて恋人を蔑ろにしてしまうとか、あるいはその実現のためにしばしの離別を耐え忍ばねばならない場合もあったりする。

あるいはその恋人もまた何らかの夢を持っている場合。これはよくあるケースで、『いちご100%』にしたって、主人公は映画監督を目指して、東城は小説家、西野はパティシエを目指す、という風に、各々異なる夢を見ている。このとき、主人公がごくごく順調に夢に向かって邁進しているなら構わないが、たとえばスランプや、そもそもの才能の欠如に苦しんでいるばあい、そして他方で恋人のほうは順調に賞なんか受賞したりして、その才能をよりよく見出してくれそうな編集者や先輩がいたりすると、こちらとしては劣等感に苦しまざるをえない(その辺をうまく描いているのが『のだめカンタービレ』や『はちみつとクローバー』で、そういう葛藤から逃げられるのが日常系である)。

自分が彼女に愛される理由はどこにあるのか。自分が夢を目指して、そのかぎりにおいて彼女が自分を応援してくれ、傍にいてくれるのであれば、夢に手が届かなくなってしまった自分はもう用済みではないのか。こういう不安や苛立ちが、徐々に現れてくる。

今日もキルケゴールを引用すると、適当な引用になるが、『死に至る病』のなかに、

もしひとが、だれかのことを好きな理由を数挙げて説明できるとすれば、そのひとのことを愛しているとは言えない。それと同じように、もし信仰に至る理由を説明できるとすれば、それは信じているとは言えない。

というような一節がある。だから恋愛にも信仰にも、合理化不可能な跳躍の瞬間が必要になるというわけである。ぼくはそれはまっとうな所説だと思うが、けれどもそれは、そのひとのことをずっと好きでいること(ずっと信じていること)を保証するものではない。もちろんどこにも保証などないし、あって然るべきではないのである。

 

しかし、もし夢に向かうひたむきな姿が君がぼくのことを好きな理由で、そのかぎりにおいて好きでいられるというのであれば、ぼくはそういう恋愛漫画はちょっと嫌だなと思ったりする。だから、良いラブコメの主人公は夢を持っているべきかどうか、ひじょうに疑わしくなる。

夢の話になると、一挙に恋愛はシリアスになる。お互いがお互いのことを好きでいるだけで足りるとするような関係性が、一種のぬるま湯に思えてくる。

たとえば原秀則の『部屋へおいでよ』はけっこう衝撃的で、あるとき酔った勢いでカップルになったふたりは、男のほうが写真家志望、女のほうがちょっと場末なピアニストであるが、ふたりが徐々にそのキャリアをすすめてゆくたびに、お互いの関係に亀裂が生じてくる。写真家の男のほうは、彼女の新しいアルバムを手放しで褒めることができないし、彼女がヘッドフォンをつけて作業に集中している姿に、苛立ちを抑えることができない。どうなるか。二人は立派な写真家とピアニストになる。だが同棲は解消、二人は別々の道を歩んで終わりである。衝撃的なラスト。それはないでしょ……と途方に暮れざるを得ない。

それなら別に夢なんて、はじめからなくてよかったんじゃないのと言いたくなってしまう。けれどそれは二重に誤っている。恋愛が夢よりアプリオリに優先されるわけなどありえないし、まさしくその夢のために二人は惹かれあったのだから。

話題の絶えない社会学者・古市憲寿の最初の単著は『希望難民ご一行様』というピースボートの乗船者についての参与観察で、彼は、世界平和とか社会奉仕のような目的性の縦軸と、みんなで仲良くなって楽しくやろうという水平的関係性の横軸を設けて、ピースボートのような一般に「意識高い系」と呼ばれる団体においても、時間が経つにつれて横軸の比重が高くなり、目的意識は希薄になってくる、という結論を下している。

かなりシニカルな、「だってそんなもんでしょ」という感じの彼の性格がよく現れていて、ぼくは一度だけ彼がいる飲み会に同席したことがあるけれども、やっぱりそういう性格なひとだったと思う。

しかしこれは感性から言うと「日常系」の、無理して頑張るよりみんなで楽しくやれるほうがいいよ! に近く、恋愛の日常性を守るためであれば、夢に向かう向上心がないためにバカと罵られても、それでもいいじゃないかという気がしてくる。

確かに夢は生きがいを与え、それを一緒に育むような恋人がいればなおのこと嬉しいけれども、その夢と恋愛とが両立せずに軋みをあげるようになったとき、どうすればいいのか、そういう結論のない問いがラブコメの世界にしばしば渦巻いているように思われるのである。

 

とはいえ、夢を諦めたからと言って、自分がもう愛されなくなるに違いないと思うのは、どちらかというと過剰に自信がない人間の言い分で、相手の本意を無視した独りよがりな発想に違いないということを言い添えておく。

夢を諦めたからと言って、その夢がそのひとのなかでまったく痕跡なく消えてしまって、ひとがまるきり変わってしまうなどということはない。

問題は、むしろ、その夢を諦めたとき、どういう新しい道を選ぶかであって、たとえサラリーマンになるのでも、たとえまったく違う夢を選ぶのでも、それがかつて夢に打ち込んだときと同じような熱意でもって向き合われれば、あるいは少なくともへこたれて廃人になってしまわなければ、お互いのあいだの関係は、変わらないのではないか。変わることもあるでしょうけど。

そこでもやっぱり、キルケゴールの言う「人生の跳躍を歩行に変え」ることが、日常を生きる一つの倫理になるのではないかと思う。