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階級とロマネスク――『美徳のよろめき』(続き)

文学

三島の小説には階級観念が現れる*1。この小説の節子も上流階級の出であり、その藤井家は「ウィットを持たない上品な一族」だとされる。躾も厳しく、門地の高い家に育ち、なお堕胎を三度繰り返すような淪落した女に節子が育ったのはなぜか。彼女は「私って娼婦みたいだわ」と感ずることに望外の満足を感じてさえいるのである*2

その零落ぶりは驚くほどであり、この小説は上流階級=美徳の人々に対する冒涜であるとさえ映る。であるとすれば、節子における肉体の発見、その狡知の遍歴は、いわば地に足のつかない階級である貴族階級が、その唯物的な現実に足をすくわれるという物語となるか。そのように読めなくもないにしても*3、三島が上流階級を扱う仕方は、マルクス主義がそれを扱う仕方とはまったく異なるものと言わねばなるまい。少なくとも彼は、共産主義社会における階級関係の不在というフィクションをまったく信じてはいない。

 

この小説には美しい場面がある。土屋とのデートを初めて間もない頃、映画を観終えたあと、町に大停電が起こる。あらゆる灯が消え、ネオンも消え、灯ったかと思えばまた消える。町が突如として異質なざわめきに満たされ、節子はそれを「何か思い設けぬ幸運」と感ずる。「何か起ればいい、何か外的な破滅がふりかかってくれればいい、というのは節子のこの日頃の願いであった。」*4

テロが起きたのではないかという叫びがめぐり、革命か、あるいはそれに類する暴動の始まりが予感される。それは杞憂に終わるのだが、この暗闇のなかで彼らの関係は大いに増進して、接吻を交わすことになる。革命の予感でさえ、彼らの(というか彼女の)恋情の手助けにしかならない。とはいえこの小説のなかには、淪落への意志というか、いわゆる階級的な高みから下落していこうとする意志があって、『鏡子の家』の鏡子の前身をなすのが節子であるといって良いほどである。この点については、次の記述を長くはなるが引用して、仕舞にしておきたい。

こんなところで、節子の階級的偏見を云々するのは、不謹慎のそしりを免がれまい。しかしそのことは、このとき彼女を支配した情緒、彼女を促した情念と、無関係ではなかった。大停電の街のどよめきのなかで、革命や暴動を夢みながら、まことに時代遅れな節子の偏見は、自分をはっきりその被害者の立場に置いて思い描いていた。こうした夢想は、節子のよりどろこのない官能を促すのに重要だったのである。

目の前の青年、自分の恋人は何者だろう、と彼女は夢想を進めた。彼は決して敵ではなく、さりとてまた、決して頼もしい庇護者でもなかった。彼は節子の好みに叶った青年、同じ育ちの男、……つまり彼女と同じ被害者だったのだ。

この人もだわ、と節子は胸をとどろかせて考えた。こうして彼女の物語趣味の条件が調った。

 

ところで、この引用にもあるように、彼女には「物語趣味」があるが、作品の冒頭に言われているように、「節子は探究心や理論や洒脱な会話や文学や、そういう官能の代りになるものと一切無縁であったので、ゆくゆくはただ素直にきまじめに、官能の海に漂うように宿命づけられていた」のである。

しかし文学というものは官能の代りを果たすだけでなくそれを昂進させもする。ボヴァリー夫人のばあいがそうで、彼女の不倫は、自然の肉体の欲求の発露であると言っては真実を外しており、彼女が修道院時代に読み耽った物語によって涵養されたものである。ドン・キホーテが騎士道小説に耽溺して騎士になるようにボヴァリー夫人は恋愛小説に耽溺して不倫するのである。したがって不倫が描かれているからと言って、ただちに肉体の狡知を云々するのは不適当である。

しかるに節子の欲望は何によって涵養されたのか。これは微妙で、やはり彼女は読書には馴染まず、茶会ではあけすけな女同士のやりとりがされているので、これに影響されることはあるかもしれない。彼女は「忠実な聴き役」である。また映画があり、彼女は男の好みを訊かれると俳優で答えるのだが、これはあくまで現実に恋の事件を起こしうるような知り合いがいないからである。

土屋が別に遊んでいる女は女優らしく、節子は時折その女優に嫉妬する。そうすると、彼女の欲望の学校は映画かもしれないが、二人で人妻の恋を扱った映画をみたとき、「自分の身をこれほど如実に映画の上に見たことはなかった」と感ずるのは、映画に欲望を教育されているというよりは、単に映画に自らを反映させているだけのようにも思う。なおまたのちには不倫ものの映画ばかり見歩いているらしい。

いったい、彼女にロマネスクな空想力が生じるのは、小説や映画媒体そのものからというよりは、彼女自身のなかにロマネスクな力が芽生えてくるからであるように思われる。「こんな小説的な想像力が、おっとりした節子に生れたのは、嘘が彼女を陶冶したのだと考えるほかはなかった」という。彼女のばあい、「詩人」ではないが「詩的経験」を経験する、というような、内発的なロマネスクの発露を考えるほうが良いように思われる。

*1:吉田健一は三島の没後、次のように述べたという。「うん、いい子だったよ、ただ彼の欠点は日本に貴族というか上流階級があると思いこみが強かったね。そんなものは明治になってからわざわざ作られたものに過ぎないのにね。」

*2:鏡子の家』の鏡子も上流の人間であるが、階級観念というものを持たず、娼婦のように扱われることを歓びにしている。

*3:そしてこういう読み筋においては『宴のあと』のような作品が対照的に際立つ。

*4:ここに『鏡子の家』の清一郎の破滅思想との共振を見てもいいかもしれない