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震災ボランティア

昨日久々に思い返していたのだけれど、ぼくが震災ボランティアとして宮城県の七ヶ浜という場所で作業していたのは、2011年の5月2日から6日にかけてのこと。動機も特にあったわけではない。強いて言うなら何もしないでいる自分が嫌だっただけ。費用も企画側が食費含めほぼ担当してくれたので、殆ど観光だったとすら言っていいかもしれない。

わずか五日で何ができるというのでもない。何らかの技能を持っていたならまだしも、入れ代わり立ち代わりで五日間ひとがやってくるとすれば、被災地としても、かえって迷惑に思うものかもしれない。しかしボランティアの使命というのは、被災地の仕事をわずかなりとも手助けするだけではなくて、自分の眼で現場を見て帰り、そこで見たものを周りのひとに伝える、数十年後になっても伝えるということでもあるのではないかと思う。つまり、それは自分をできるかぎり部外者にしないための努力なのではないかと思う。

 

現地でぼくがしていたことは二つある。泥かきと在宅者訪問。

泥かきは、正面切っての肉体労働。このために買った分厚い長靴に、眼が痛まないための貸出ゴーグルなど用いて、相当の重装備で働く。津波は、多くの家を損壊したけれども、破損が少ない住居であっても、津波で浸水した建物には泥が堆積しており、そこに含まれる塩分によって木材が腐敗したり鉄鋼が錆びついたりすることがある。これを塩害という。塩害を放置しておくと、被害の少ない建物でも取り壊しをしなければならないので、早期のうちに泥を掃除しておく必要がある。そのために、家の床板をバールか何かで取り外し、シャベルで泥を掃き出す。

単純作業である。何も考えずに労働する時間には幸福があるとぼくは思う。休み時間には、地元のひとが持ってきてくれたおにぎりを食べて、それがまた嬉しい。過分にコミュニケーションをとる必要もない。たとえ自分が虚弱であっても、肉体労働であれば、一人の人間として多少は貢献できるはずである。その意味で、自分にも何かできたという感覚が得られ、ぼくは張り切った。

しかしあまり朗らかに働きすぎたのではないかという気もいまはする。ぼくがそれを善行と信じて踏み入り、一時的に解体していた家屋は、それまで誰かが住んでいた私的な領域でもある。たとえそれを長持ちさせるためであっても、家の床板がぼこぼこと取り外されてゆく姿を見るのは、大切なその領域が一時掻き消されてゆくような感覚を与えるかもしれない。少なくともぼくのほうでは、そういう配慮を抱いてもよかったはずなのだ。

もう一つの作業は在宅者の訪問であるが、これは全く捗々しくなかったように記憶している。震災から二月と経っていない時期、まだ避難所で生活している人たちが多かったが(ちなみにその避難所は我々ボランティア班が本拠地として一部利用していた)、被害が大きくなかった箇所では自宅での生活を続けている人も多い。しかし彼らのなかにも生活の不便があるかもしれない。また、避難所では様々なイベントや生活用品の支給を行っているが、十分な情報が行き渡っていないために、そこに参加する機会を逃しているかもしれない。こういう理由から、在宅者のもとに訪問して「用聞き」のようなことをしつつ、避難所について話をする、というのが趣意だったと思う。

とはいえ、ぼくが配置された地域は、どちらかというと山間のほうで、津波の被害は僅少。宮城県に「鈴木姓」が多いことを発見したくらいで(その地域殆ど鈴木さんだった。区別は○○の鈴木さん、と住んでいる場所でつけるらしい)、玄関口に何件か伺って、それでも手持無沙汰だった。というか、このときのことについてあまり記憶にもない。

それだってもちろん教訓にならないでもない。被災地というかたちで一括りにしても、一方には、二か月経ってもまだ横転したままの自動車が放置されていることに驚かされるような場所もあれば、他方では十年前から変わらないような安寧を留めている場所もある。それにもかかわらず「被災地」「被災者」と呼ばれることで、後者の地域に住んでいるひとたちが、何となく気まずいような思いをすることもあれば、時には「生き延びてしまった」ことへの負い目を感じることもあるという。それは大規模災害がもたらす複雑な心理である。そのなかでもたとえば、自分が受けた被害、見た津波について話してくれようとするひとがいて、そういう話には真剣に耳を傾けた。

作業のあとには、ボランティアのベースになっている避難所に戻り、時にはそこで被災者向けの炊き出しを分けてもらえることがある。だいたいカレーとかだったと思うが、最終日、確かきりたんぽ鍋(秋田の郷土料理だが)が出て、それがたいそう美味しかったことはよく覚えている。きりたんぽというか、鍋におにぎりを入れたようなかたちになっていた気もするが、温かくて、わがままを言っておかわりさせてほしかったものである。避難所の近くでは桜が咲いていた。五月だが、東北ではまだ咲いていたらしい。この時期東北で花見という気持ちになるのも難しかったと思うが、それでも桜は咲いていて、それが不思議な花見体験になった。

 

こういうわけで、ぼくにはもっぱら肉体労働か、玄関訪問が割り振られるくらいで、避難所の人たちとの交流を割り振られることはなかった。そのことはひょっとするとよかったのかもしれない。避難所の人たちに自分たちの生活に侵入されると思われる可能性もある、運動をしましょうと言っても何を馬鹿にしやがってと思われてしまう可能性もある。もちろん、割り振られればやれることをするまでだが。それに、同じボランティア・グループの人たちのなかでは、そちらを担当して、感謝され、とても嬉しかったと泣いていたひともあった。

それでも軋轢のようなものはあった。本当を言うと、ぼくはこのボランティアに友人と参加したのだが、その彼は、ボランティアが避難所で活発に動きすぎるという避難所暮らしのひとの意見にかなり肩入れして、ほかのメンバーと軋轢を起こしていた。ぼくはそのときのことをきっかけに、彼に対しては何かしら許せない、釈然としないものを抱えている。

ぼくはと言えば能天気な人間である。福島からボランティアに参加していた肌の白い女の子にちょっと惚れ込んで、バスの帰りのときに「ちょっと一緒に話そうよ」などといって声をかけたものの、他にたくさんひとがいたので何も話せなかったというのは、いま思い返しても恥ずかしい。それで広島から来たボランティアの青年と宮城県中央の青葉通り辺りを散歩して、よし食でも復興だよという決まり文句を吐きながら牛タン食べて、「ああ、ぼくはなんて勇気のない人間なんだ……」と愚痴っていた。あの夜も綺麗な夜だった。商店街にも殆どひとはいない。帰還のバスに遅刻しかけて駆ける。何というか、ちょっと呆れるが、楽しかったのだと思う。