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ジッド『背徳者』(2)――土地所有の不安

手元に『背徳者』もないため書きたいことだけ書き留めておきたい。さて、『背徳者』において病とは何かという問題が引き継がれたが、この「病」は多層的な決定を受けている。もちろん、病理的な意味での(文字通りの)病が、この小説の起点をなしている。ここで確認しておけば、『背徳者』とは、それまで文献学者として相当に名を知られていた若き俊英であるミシェルという青年が、マルセリーヌとの結婚旅行とその折の病臥を機に、人生の転機を迎えるというのが大まかな始まりである。喀血とともにミシェルは殆ど死を予感するが、マルセリーヌの手厚い看護もあって、徐々に恢復してゆく。ところが彼の恢復は、ただそのとき気候条件その他を変動として引き起こされた病からの恢復だけを意味するのではない。彼は自分の病とは何かと自問自答して、この喀血、この肺の病だけを指すわけではないと断言して、それはむしろ意志の問題なのだと考える。そして、これまでの人生すべてが実は長い長い病の時期だったのであり、そこからの恢復、健康を得たのだと彼は結論する。

もちろんここではニーチェのことを考えてほしい。ギリシア語ラテン語に通暁する若き文献学者というミシェルの設定そのものが、若き俊英ニーチェをモデルにしている(もっともニーチェとは違い、ミシェルは講義の場でもそれほど失敗するわけではないが)。そしてニーチェとともに、彼の「病」への批判は、文明論的射程を獲得することになる。近代ヨーロッパ文明そのものが一つの病だったのであり、アフリカ体験は、その外部を彼に示してみせる。この時期「旅」が大きな主題たりえたのは、「ヨーロッパ」から逃れたいという大きな願望を支えにしていたからである。ミシェルは講義のなかで、文明とは爛熟のなかで頽廃を迎えてゆくものであるという一般論を表明する(ギリシア後期のデカダンスのような)。アフリカの力強さは、彼にそれと真逆のものを示してみせたのである。

それに加えて、セクシュアリティの「病」が加わることになる。なぜならミシェルがアフリカで発見するのは自らの同性愛の傾向だからである。新婚なのに? 物語はふたりの性生活について多くのことを語っていないが、ふたりが(新婚であるにもかかわらず!)ベッドを別にしていることを何度か強調している。彼が明示的に彼女と寝た、と書いているのは、彼女が暴れる馬にのって危機にさらされたとき、つまり彼女の生命が何らかのかたちで危機にさらされたとき、はじめて彼は性的な意味での興奮を覚えたということになる。ジッドのオナニスムといえば自伝『一粒の麦もし死なねば』のなかでも既に知られているが、キリスト教道徳の強い抑圧のなかで自らのセクシュアリティについて抑圧を重ねていたピューリタンジッドが、アフリカにきて覚えた文字通りの興奮が、この小説のなかにはっきりと表れている。

したがって、この作品の「病」の問題をセクシュアリティから読み解くのは、まったく妥当なことだと言える。しかしにもかかわらず、この小説を読んでいるとき、ジッドの病の「根源」にあるとぼくに思われるのは、彼の階級意識、つまりブルジョワとしての彼の地位ではないかと思う。それは西洋人であるということとたぶんに重なりはするが、この小説において、ジッドはかなり明示的に西洋にいて、ある程度の特権階級に属する自己の立場を、アフリカという鏡のなかで病的に描こうとしているように思われる。ぼくがとりわけ注目したいのは、「土地」の問題、土地所有者としてのジッド≒ミシェルである。父親の遺産を受け継ぐかたちで、彼はわざわざ働く必要のない、特権階級に属する人間であることが明示される。しかし「旅をする」という経験は、そうした所有から身を引きはがすことを何よりも意味する。三部構成からなるこの小説の第一部は、アフリカ体験をとりわけ描くことで、それまでの無自覚的なブルジョワ的所有のくびきから、徐々に解放されていく過程を描いていると言っていい。

小説の第二部では、アフリカ旅行は終わり、新婚夫婦は故郷に帰るが、彼らはむしろ領地である彼らの土地へ向かう。アフリカでの経験をもとにして、ミシェルはそれまで全面委任していた土地の管理を、自らが請け負おうとする。この個所は作品のなかでとりわけユニークな個所ではないかと思う。ミシェルの自己の土地に対する態度は、土地の所有者のそれであると同時に、土地の簒奪者のそれをも兼ねている、といえるのではないか。なぜそういうことが可能なのか。ヨーロッパに帰るとともに、ミシェルはそれまでそれほど苦にも思っていなかった社交界の付き合いを苦痛に感じ始める。彼らの無自覚な特権階級としての態度が、あまりに退屈なものに思えてくる。それに対して、それまではいけ好かない人間だと思われていたメナルクという青年が、彼にはかえって好ましく思えてくる。彼は孤独で、人付き合いをせず、むしろ冒険家として世界の方々をめぐっているような人間で、ミシェル自身は、変化を迎えたいまとなっては、彼のほうに親近感を覚えるようになる。第二部の重要な個所をなすメナルクとの対話で、メナルクは、ミシェルに決定的な言葉を投げかける。終生を旅人として生きているようなメナルクからすれば、ミシェルの生き方は、あまりに多くのものに縛られている。彼は結婚している、彼は土地を所有している、彼は大学に教職を持っている……なぜむしろ、すべてをなげうって旅に出ようと思わないのか? ここでジッドはメナルクの(たぶんにニーチェ的な)態度に、全面的に賛意を呈しているわけではない。むしろメナルク自身が、自分の人生の選択に対して幾分懐疑的である。しかしにもかかわらず、ここでのメナルクの見解、ミシェルの人生にとってはむしろ糾弾とも映るようなそれは、彼の人生の決定的な余韻をもたらす。そしてミシェルはついに、第二部の終わりごろには、土地を売り払うまでに至るのだが、それに至るまでの経緯がまた面白い。

第一部のピークをなす個所は、ミシェルが家に招いたアフリカの青年が彼の所有物を盗む姿を見て見ぬふりをする箇所にある。一見すると、この箇所がもつ重要性は測りかねるところがあるが、この「窃盗」というモチーフは、「所有」の対極をなすものとして、またそれのみとして、きわめて重要な意味をもつ。自らの所有物を盗ませるがままにすることで、彼は自らの所有者、土地所有者としての態度を、放棄することを始めるのである。そして第二部において、彼は自らの土地から、自らの土地の作物を盗もうとする。土地の小作人のひとりである青年とグルになって、夜な夜な盗みを働くのである。もちろん土地所有者である彼にとっては、ほとんど無意味なふるまいに違いないのだが、ここで彼は、アフリカで出会った青年の模倣を始めているのである。まるで彼が何も持たざるものであるかのように。そうすることで彼は、これまでの特権的所有者としての彼を「掠め取ろうと」している。

ここでおそらくジャン・ジュネのことを思い出してもいい。窃盗者であるジュネは、サルトルがその伝記のなかで説明しているように、田舎の土地所有者である人々のなかで育ち、しかし何等の所有の権利を持たないがゆえに、盗むということにしか自己の存在の仕方を見出すことができない。他方ジッドはジュネと違いはじめは所有者であるものの、自覚的なかたちで盗人になろうとする。そして両者のホモセクシュアリティは、多少ではあれこの「盗人」という存在様式と関係するのである。とりわけぼくは「盗み見る」という契機に注目したいと思う。アフリカの青年が彼の所有物を盗み取るとき、ミシェルがこだわるのは、彼をつかまえることではなく、彼が盗む姿を盗み見ることにある。そして彼自身が盗みを働くようになるとき、彼を興奮させるのはやはり見つかるかもしれないという不安に他ならない。このようにジッドが「盗み見るsurprise」ことに対してオブセッションともいえる執着を見せるのはなぜなのかと問うてもいいし、それがジッドにとっては彼の自慰の経験が両親に発見されてしまうかもしれないという不安に結びついているのだと性急に結論づけてしまっても、ぼくにはまったく不合理には思われない。しかしセクシュアリティが先立つのか、それとも「所有と盗み」というより社会的な関係が先立つのか、これはジッドの根本的問題を考えるうえで重要であり、それはあたかもジュネに関する有名な問い、「彼は盗人である前から同性愛者だったのか、それともまず同性愛者であってそのあと盗人になったのか?」という問いを思い起こさせるものである。そしてある作家がそれに対して、彼はまず盗人であったのだ、と答えたように、ぼくはジッドについて、彼はまず所有者であったのだが、そのあとに旅をつうじて盗人に、つまり土地の非所有者になることを選んだのだ、という風に考えたいと思う。じっさい、ぼくが考えるかぎりでは、セクシュアリティの問題は、ジッドにおいて、所有の問題(たぶんにマルキシズムが得意としてきた問題系だが)に、一歩譲ると考えられるのではないかと思う。

したがってこの小説は、彼のアフリカ体験や、メナルクとの対話を契機として、彼が自らの富を脱所有化、脱物質化してゆく過程であるとぼくは見做したい。そして所有を減らせば減らすほど、彼の「健康」は増してゆくのである。ここに至って、彼の病、この小説の病とは、あまりにも無自覚に土地所有者であり不労所得を得られるということに対する階級的不安に根差しているのであり、それを放擲していく過程こそが、彼の健康を準備するものになるのだ、という風に結論づけたいとぼくは考える。そして物語の終わりには、もちろん、最大の「所有物」(こんな言い方に到底同意することはできないが物語の構成上そうなっている)である、彼自身の妻を手放す(失う)ことによって、彼のその道のりは、とりかえしのつかないほどに、完成するのである。