「ピエロ伝道者」と「FARCEに就て」――牧野信一と坂口安吾(2)

ちょっとばかしお久しぶりです。前回は安吾の文壇デビュー作「風博士」(31年)と自伝的フィクション「勉強記」(39年)を扱って、作家の出発点について考えてみました。今回は、「ピエロ伝道師」(31年)と「FARCEに就て」(32年)を扱います。これらはデビュー時の安吾マニフェストと呼ぶべきもの。彼は最初ファルス作家だったのです*1

 

突然ですが、僕は笑いが好きです。生きていくための力だと思うんですね。お笑いが好きというわけではないのですが、それでもここ数年はちょこちょこ観るようになりました。あと『ルーキーズ』の作者の森田まさのりが連載してたお笑い芸人を扱った漫画『べしゃり暮らし』、まだ最後まで読んでないけど、めっちゃ面白いですよね。又吉直樹の『火花』もまあ面白かったと思いますけど、むしろ森田まさのり芥川賞をあげたい。

すみません脱線しましたが、ついでに言っておくと、残念ながら僕には笑いのセンスがない。こんなこと真面目に書いていれば世話ないですね。昔はまだ少しマシに笑いあっていた気もしますが、いまはもう駄目です。いつも退屈そうな顔をしています。それでなぜ笑いのセンスがないのかということを考えてみると、これはそもそも笑いに対する態度の問題ではないかと思われる。

それは、笑いは哀しい、という態度です。これは直観として、それほど間違ったものとも思われない。ひとがなぜ笑いを求めるかと問うなら、それはちょっとつらいことがあったときや、嫌な仕打ちを受けたときに、その笑いがカタルシス的な効果をもたらしてくれるからではないでしょうか。それは言ってみればいささか庶民的な処世術。昔の分類では喜劇が悲劇よりも下位にあって、悲劇の登場人物が貴顕の方々に限られるのに対して喜劇では庶民が登場しうるのでした。そこには転覆的な力があるにはありますが、その根っこにはやっぱり哀しみがある。そのことを、笑いについて書いていた哲学者、ベルクソンバタイユなんかは、あまりしっかりと見つめていなかったのではないか。ですけども、僕は三谷幸喜好きなんですが、彼の『笑の大学』(監督は彼じゃないけど、これが一番好きかな)なんかを観ると、それがはっきり示されている。

でも、あくまで哀しみは根っこにあるべきで、笑いがどこかで涙に帰結することはありうるにしても、初めから笑いのなかに哀しみを見出していたら、笑えるものも笑えなくなってしまう。これはもう非常に困ったことで、たとえば物凄く笑ってるひとたちと一緒にいて、「このひとたちはつらいことがあったから、こんなに泣きたいんだなあ」と考えていたら、笑うに笑えないでしょう。これはあまり健康的ではない*2。そうして年を取るたび、どんどん、泣けもしないのに感傷的になってしまう。若いうちは、『ライフ・イズ・ビューティフル』なんかを観ながら嗚咽を膝で抑えていてはいけない。

 

前置き長くなりましたが、坂口安吾は、「ピエロ伝道者」というエッセイのなかで、そういう「悲しき笑ひ」に断固反対する。ちょっと初めから読んでみましょう。

坂口安吾 ピエロ伝道者

空にある星を一つ欲しいと思ひませんか? 思はない? そんなら、君と話をしない。

屋根の上で、竹竿を振り廻す男がいる。みんなゲラゲラ笑ってそれを眺めている。子供達まで、あいつは気違いだね、などと言う。僕も思う。これは笑わない奴の方が、よっぽどどうかしている、と。そして我々は、痛快に彼と竹竿を、笑殺しようではないか!

 「空にある星を一つ欲しいと思ひませんか?」なんともロマンチックな書き出しではないでしょうか。その願いはしかし、夢物語のなかでは素敵ですが、現実に手に入れようとしたら、ましてや屋根の上で竹竿を振り廻して手に入れられると思っている男がいるとしたら、これは馬鹿なのであって、何やってんだよと笑わずにはいられない。

けれども、と、どこかで私たちの反省的な回路が動き始めます。我々人類というものは、いつも届かぬ夢を追い求める生き物ではなかったか。いつから自分はその夢を諦め、大人の振りをして生きていたのか。本当は僕も、あの男と一緒になって星を手に入れてみたいのではないか。こうして、ひとりの狂人まがいの情熱が、はじめは馬鹿にされながらも、次第に周りを動かしてゆく……感動モノの映画まであと少しです!

……そうじゃないだろう! これは実は「悲しき笑ひ」の罠なのです。戒めて安吾の曰く、

僕は礼儀を守ろう! 僕等の聖典に曰く、およそイエス・ノオをたずぬべからず、そは本能の犯す最大の悪徳なればなり、と。又曰く、およそイエス・ノオをたずぬべからず。犬は吠ゆ、これ悲しむべし、人は吠えず、吠ゆべきか、吠えざるべきかに迷い、迷いて吠えず、故に甚しく人なり、と。

 この素晴らしい一節、実は文意がいまひとつ読み取りづらくもあるのですが、こういうことかと思います。星追い男を笑う笑いには色々と動機もありもしよう。それを色々と詮索すれば、あなたの自身の苦悩も見えてくるかもしれない。あの狂人は、理想と現実のはざま、欲望と自制心とのはざまで苦しむ、あなた自身のもう一つの姿なのかもしれない。しかし、それが何だと言うのか。それを嘆き悲しんでどうする。面白ければ、あなたは笑っていればいい。あなたは悩める生き物で、それ以外ではありえないのだから!

「勉強記」の終わりに、「迷う心のあるうちは、迷いぬくより仕方がないと痛感した。」という按吉の述懐があることを想い出せば、これは一層わかりやすくなります。俗人は、欲望に振り回され、それとともに生きることをやめられはしない。犬が吠えれば、それは哀しい気持ちを表しているのだろうが、人間は、吠えるか吠えないかさえ悩み、悩んだすえに吠えることができない。そういう葛藤こそ、人間を人間たらしめているんじゃないか。

だからそれを含めて笑えばよい。無理やり是非に及ばせようとせず、悲しんでみせたりせず、笑うことでそれを受け入れる。そして竹竿を持つ男は、やはり己の思うがままに突き進めばよい。それがお前の高貴さではないか。

 

こうして安吾は、笑いの無根拠さを肯定する。というか、安吾ははっきりと笑いの根底に哀しみや悩みがあることを見通しているのですが、「涙を飛躍しなければならない」とはっきり言ってみせるのです。

日本のナンセンス文学*3は、悲しき笑いに満ち溢れている。「しかし、人を悲しますために笑ひを担ぎ出すのは、むしろ芸術を下品にする。笑ひは涙の裏打ちによつて静かなものにはならない。むしろその笑いは、騒がしいものになる。」と言って、安吾は批判しています。

そして、ドン・キホーテ! 安吾を読むときにも牧野を読むときにも、何度も彼の名前が特権的なものとして現れてくるのです。それはドン・キホーテが誰よりも空想と現実の桎梏を生き、それを「飛躍」することで私たちに笑いを与えてくれるからです。それなのに、そこに哀しみを見てどうするのでしょう。星を追う男は、如何にもドン・キホーテ風の造形ですが、これを「最も悲しい文学である」などといって称賛することは、笑いの肯定的な力をふいにしてしまうのです。それが涙を振り絞ることがあるにしても、それはあくまで自然なものでなければならない……

 

翌年の「FARCEに就て」でも、安吾は同じことを言っているのです。安吾は、空想と現実を切り離されたものとして見做す考え方をはっきりと批判して言っています。空想とは、我々人間が現実に生きているからこそ抱くもので、現実の一部ではないか。それが矛盾し食い違うというのは、人間の本質的な在り方に他ならない。

坂口安吾 FARCEに就て

大体人間といふものは、空想と実際との食ひ違ひの中に気息奄々として(拙者なぞは白熱的に熱狂して――)暮すところの儚ない生物にすぎないものだ。この大いなる矛盾のおかげで、この箆棒べらぼうな儚なさのおかげで、兎も角も豚でなく、蟻でなく、幸ひにして人である、と言ふやうなものである、人間といふものは。

私たちの矛盾的な在り方を、すべて同一平面上において、夢も空想も、狭い意味での現実も何もかもを、均等に扱ってみせることに、ファルスの肯定的な力がある、と彼は言います。現実と夢想のあいだ、笑いと涙のあいだに上下関係を置かず、すべてが矛盾するままに、その矛盾を受け入れてみせようとする。

ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しやうとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャ/\であれ、何から何まで肯定しやうとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。

これはもう殆ど意味がわからない。ほとんどナンセンスだと言うしかないような地点にまでたどり着いているのですが、しかし完全なる破綻には至らないところで、生の絢爛たるさまを描き出してみせる。それこそが、苦悩の果てに安吾の辿り着く境地であり、この(反)弁証法的な笑いの弁証法を、「生に至る病」であると言ってみたいと思います*4キルケゴール死に至る病を絶望であると言いましたが、同じ絶望を根拠に持ちながら、そこからもう一度跳躍してみせるところに、笑いという生に至る病が現れてくるように思われるのです。

 

どうもナンセンスな文章を書いてしまいました。そして僕自身、このような笑いの破天荒さに殆ど恐れすら感じるほどなのです。初めに述べましたように、僕はかなり「悲しき笑い」のシンパですし、涙を跳躍して、笑いを無底の境に至らせるには、非常な努力が必要であると思います。やがて哀しき道化業……ということになってしまうかもしれません。しかしそれでも、安吾の言う笑いは、如何にも高貴なものだと思います。

夢も現実の一部であると言うのは、言うだけならたやすいことですが、それを貫き通すのは非常に困難で危険でさえあります。空想も度が過ぎれば狂気になり、ドン・キホーテのように両者の区別ができなくなってしまうのは、取り返しのつかない途にも思われます。それでもなお、夢を現実として生きうるのであれば……ああ。

 

解決のつかない葛藤に悩まされてしまいますので、今日はこのあたりでやめておきましょう。今回はまったく牧野信一が出てこなかったので、次は、牧野信一坂口安吾、二人の奇妙な友情について考えられたらなと思います。

*1:ファルスと言うと、精神分析ではペニスを意味するようですが、それではなく、悲劇とも違えば喜劇ともやや異なる、荒唐無稽で一般にはかなり低く見られているジャンルを指します。安吾に曰く、「仮りに、悲劇、喜劇、道化に各次のやうな内容を与へたひと思ふ。A、悲劇とは大方の真面目な文学、B、喜劇とは寓意や涙の裏打によつて、その思ひありげな裏側によつて人を打つところの笑劇、小説、C、道化とは乱痴気騒ぎに終始するところの文学。

*2:いま気付きましたが、このラフな文章はつい最近読んだ本の文体の影響をモロに受けています

*3:当時、井伏鱒二と中村常吉がペソコとユマ吉というモダンガールモダンボーイを主人公にしたナンセンス読み物を欠いていたそうです。機会があれば読んでみたいですね

*4:「肩が凝らないだけでも、仲々どうして、大したものだと思ふのです。Peste!」と言って安吾はこの文章を締めくくっています。Peste!ってどういう意味なのでしょうか? それが病としてのペストを指しているのだとすれば、非常に奇怪ではありますが、笑いの持つ病的な力をここで彼が意識しているということになりますまいか。

「風博士」と「勉強記」――牧野信一と坂口安吾(1)

本来ならば次はデカルトの『情念論』を読むつもりでしたが、中々思うようにいかないこともあり、前回の牧野信一のあとにつづく日本文学の流れを汲むということで、坂口安吾(1906-1955)に触れておきたいと思います(twitterに挙げた文章の清書です)。

 

坂口安吾は、戦後の「堕落論」や「白痴」、「桜の森の満開の下」によってとりわけ知られますが、文壇へのデビューは、31年の「風博士」の発表と、それが牧野信一に評価されたことに始まるとされています。

図書カード:風博士

図書カード:「風博士」

 

牧野の文章を読んでみると、これはごく短い推薦文で、『文藝春秋』に載ったとはいえ、よくこれで人目を惹いたものだなと驚くばかりです。しかしその次に安吾が発表する「黒谷村」も、やはり彼の称賛を受ける(35年の単行本刊行時)ということで、徐々にその文名は高まっていったのでしょう。この前後の安吾の生活は「処女作前後の思ひ出」(1946)に詳しい。牧野信一との結びつきについても少しく語っています。

図書カード:坂口安吾君の『黒谷村』を読む

図書カード:処女作前後の思ひ出

人々はそのころの僕の作品を牧野信一に似てゐると言ふけれども、之は偶然で、私はそのときまで牧野信一の小説を全然読んでゐなかつた。彼と私の愛読するものがそのころ全く同じであつたから、例へばポオ、ドン・キホーテボルテール、等々、自然似た作風になつたのであらう。然し、その後、牧野信一の小説を読んで感心したが、彼の後年の作品は好きになれず、彼の中年の作が好きで、そのためによく喧嘩をした。彼に就ては、いつか小説に書いてみたいと思つてゐるから、今は多く語らない。

 

さて安吾の「風博士」はと言えば、はるか昔に読んだ気がしますが、いま読んでみてもさっぱり意味がわからない。この作品について、僕に「絶望と爽やかさの同居するイメージ」と言ってくだすった方がありました*1。中々僕はそんな風に思うにも至っていませんでしたが、風博士の「敗北」と、その死によって彼は風となり、そのことで蛸博士に一矢報いたのだとする弁士の弁明は、既にドン・キホーテサンチョ・パンサのようなエゴの分裂を示しているようにも思えます。

 

周囲の人には宿敵・蛸博士との闘いの味方に立ってもらえず、かえって罵倒されるばかりの風博士という空想的人物は、それでも必ずしも哀れを催させるものではない。むしろ弁士の「然り、風である風である風である」という力強い肯定によって、彼はまったく正しい人物だったと思うことができる。この「然り」のなかに、坂口安吾の肯定の文学の最初のモチーフが現れているように思われます。

 

では、このような肯定に至る安吾の青年時代とはどのようなものだったか。伝記的な事実は詳らかにしませんので、ここでは彼が39年に発表している「勉強記」という一種の自伝によって考えることにしましょう。

図書カード:勉強記

これは抜群に笑わせる作品です。東洋大学の印度哲学科に入学した安吾は、ここでは涅槃大学の印度哲学科に入学する栗栖按吉に。彼は救いを求める求道的(でかつ愚昧)な人物ですが、涅槃で印哲なのに栗栖(キリスト)なのは既にギャグなのでしょうか?

 

ガマガエルやゴリラに擬られる男・栗栖按吉は、涅槃大学に入学する。印哲なので同級はもっぱら坊主であるが、彼らが大学生活を俗流に謳歌しようとしている一方で、按吉は禿頭にしてしかも真面目に授業に出ようとする。サンスクリット語パーリ語チベット語を覚えるために呻吟すれども、「六時間も七時間も辞書をめくった挙句の果に、ようやくたったひとつの単語を突きとめて凱歌をあげる程」。とはいえそれを教える大学教授だって、辞書一つ引けないのです。おまけに放屁する。蔵書に寝小便をする。ファルスもここに極まれり。

 

けれども同時にここには、(反)教養小説的な側面がある。この時期の安吾自身が、悟りを開こうと発起しており、その学問に打ち込むさまと言えば、まったく実直なものであったとのことです。ところが、この小説の語るところでは、仏教の講座に足を運び、坊主のもとへ行ってはみても、「人肉の市をさまようような切なさ」からは逃れえない。

 

「人肉の市をさまようような切なさ」! 驚きの名句です、それは本当に切ないのでしょうか? 安吾というひとはこういうものに切なさを見出してしまうのですね。そしてついには仏門を諦めてしまう。このように、救いを求め生から解脱しようとする動きから、苦悶のなかに踏みとどまる生への、作家の自己遍歴を語るものとなっているという点でも、この作品は興味深いように思うのです*2

 

これをこれまで考えてきたストイシズムの文脈から考えてみたいと思います。仏教的ストイシズムというものがあるとすれば、それはやはり欲望を寂滅させようとする意志の循環的な運動に共通するものがあるからです。日本ではとりわけそれが、修身の授業として現れ、欲望を我慢するということは戦間期日本の体制的イデオロギーにすらなったのではないかと思われます(そしてそれは今日においてもなお)。

 

一方でそれは反体制的運動にすら見られる特徴で、戦前から68年頃にかけての共産主義というものも、大枠では非常に農村的な、貧しさに由来するものだったのではないでしょうか(とはいえあまりにざっくりした見方なので、もう少し考える余地が欲しいのですが*3)。

 

昭和のプロレタリア運動もやはりそうで、現実の過酷さを盾に、しばしば芸術の豊饒性を軽視するところのものであったようです*4。そのなかで牧野信一は、樽野という、外面的にはストイックでありながら(ああ、言葉の定義がはっきりとしません……)、内面においては夢想の花を開かせるという二重化によって、夢想的なものの擁護を行っていたように思われます。しかしそこでも、夢想がいつか滅びるという運命的な世界観は残っている。僕はそのように解釈しています。

 

安吾においては、その夢想は内面的なものに留まることなく、修身的ストイシズムの軛を越えて、現実そのものと区別がつかなくなってしまう。もはや、内面と外界という区別すらもないようで、そのことは、精神と身体という区別自体が失われてしまうことと軌を一にしているように思えます。精神が身体を制御するのではない、そのようなことに倫理を見出すことは不可能である。むしろ、肉体そのものが欲望の言語で思考を始め、そこに新たなモラルが生まれようとしている。戦後「肉体自体が思考する」などでアプレ・ゲールの肉体派を切り開いた安吾が、既にここに見えてこないでしょうか。

図書カード:肉体自体が思考する

 

しかし、俗人は女に惚れる。命をかけて、女に惚れる。どんな愚かなこともやり、名誉もすて、義理もすて、迷いに迷う。そのような激しい対象としての女性は、高僧の女性の中にはないのである。按吉は痛感した。どちらが正しいか、それはすでに問題外だ。迷う心のあるうちは、迷いぬくより仕方がないと痛感した。

理想的世界におけるアパテイアないし解脱の境地への憧れが一方にはあり、他方では現世の絶えざる葛藤への苦しみがある。けれども、この葛藤そのもの、俗人の迷いのなかに安吾は賭ける。これが彼の作家としての出発点にあったように思われます。そしてファルス(笑劇)という手段こそ、神経衰弱に陥った精神を解放して、この世界を肯定するための力となるのです。

 

というわけで、次は「ファルスについて」と「ピエロ伝道者」についてまとめておきたいと思います(これもtwitterには書いたんですが)。

*1:twitterにて。ありがとうございます。

*2:「処女作前後の思ひ出」では次のように語られている。「坊主の勉強も一年半ぐらゐしか続かなかつた。悟りの実体に就て幻滅したのである。結局少年の夢心で仏教の門をたゝき幻滅した私は、仏教の真実の深さには全くふれるところがなかつたのではないかと思ふ。つまり仏教と人間との結び目、高僧達の人間的な苦悩などに就ては殆どふれるところがなかつたもので、倶舎くしやだの唯識ゆいしきだの三論などゝいふ仏教哲学を一応知つたといふだけ、悟りなどゝいふ特別深遠なものはないといふ幻滅に達して、少年時代の夢を追ひ再び文学に逆戻りをした。」

*3:僕はここで(彼自身がこう語っているわけではないが)竹内洋の『教養主義の没落』を念頭に置いています。

*4:安吾、同じく「処女作前後の思ひ出」より。「当時隆盛な左翼文学に就ては、芸術的に極めて低俗なものであつたから全く魅力を覚えなかつた。もしあの当時左翼芸術に高度の芸術性があつたなら、私の今日もよほど違つたものになつてゐたと思ふ。」

ストイシズムの栄光と悲惨――牧野信一「村のストア派」を読む(2)

図書カード:村のストア派

前回は牧野信一の略歴と作風を紹介しながら、「村のストア派」という短篇へのイントロダクションを行いました。繰り返し注意しておきたいのは、ここでの「ストア派」は元の外界や情念の吟味徹底による克服=無関心という性格を薄れさせ、文字通り外界に「無関心な」隠者としての樽野を指しているということです。

 

そんな樽野とまったくの対照を示しているのが彼の棲む村の様子で、「村」と「ストア派」の対比が、この小説に無上の魅力を与えています。折しも村はお祭りの時期、連日花火が上がり、村人たちは遊園地に行き、その年の豊獲をお祝いしています。

凡そあたりの空気は、個人[ルビ:ひと]の悩みなどといふものからは遠く、単に吾々は健全なエピキユリアンであれば幸ひだ! と囁くばかりな、颯爽たる、結構な賑ひが日毎に盛んになつて行く[...]

ここでのエピキュリアンという語も原義をかなり逸脱した「享楽主義」として描かれていますが、村とその人々の描写は昭和初頭という時代の雰囲気をまったく感じさせず(遊園地!)、殆ど神話的なものにさえ思えます。そしてそのような祝祭的雰囲気のなかで、実は樽野のストア主義も、装われた(あるいは強いられた)ものであることが徐々に分かってくるのです。というのも、彼は「本来は浮気な享楽派」だったのですから。

決して研究の為に精進してゐるわけではなく、悟道の為に苦行に励んでゐるわけでもない厭々の籠居を続けてゐる樽野にとつては、あゝ遊びに出たいなあ! お祭りを見に行きたいなあ! 斯う云ふ羨望の思ひのみが身を焦すのであつた。この誘惑と闘ふことが我慢出来なかつたのであるが、彼は、母やGやそして自分のことを知ると、恐ろしい後ろ暗さに襟元をつかまれて、逃げやうとして門柱にしがみついても腕はもぎとられ、石をつかんで暴れ廻つても、捕り手に囲まれた悪人の最後のやうに忽ち縛いましめられてもとの牢獄へ伴れ戻されてしまつた。――彼は、薄暗い幕の内側で狂人の如く見苦しく、のた打ち廻つた。

 この一節は多分に示唆的です。まず、樽野は決して根っからのストア派ではないということ。彼はむしろエピキュリアン(享楽)的な態度に近く、しかしながら母親やGの存在それにともなう自己のもとではそれを露にすることもできず、一種痩せ我慢的に「厭々」ストア派に収まっている。そして彼は母親たちの形成する場のことを「牢獄」と喩え、そこから逃れえず狂人のごとくのたれうつばかり。こうしてこの小説は、必ずしも陰惨なものではないにもかかわらず、「見苦しく、のた打ち廻」る姿のなかに、言語を絶するどす黒い苦悶がうかがわれてくるのです。

 

しかし牧野信一はそのことを露悪的には描かない。あくまで基調は、隠者樽野の内心の平和と、彼を取り巻く困難な状況のコントラストにあります。そして状況が困難になればなるほど、樽野はいっそう内心の平和に留まろうとしますが、その葛藤が広がるにつれて、ストイックな態度を維持することが不可能になり、苦悶がかすかに顔を覗かせる。牧野信一はそのときにもユーモラスな筆遣いを失ってはいない。すなわち、騎士道物語に傾倒するドン・キホーテを描くセルバンテスの筆致が、そのユーモラスな眼差しによって騎士道物語に事実上の終焉を突き付けていたように、ストア派に傾倒する樽野を描く牧野信一の筆致は、ストア派の事実上の不可能性を、数々の対比のなかで示してみせているわけです。その意味で、樽野の読書暦を語る次の一節は物語るところが多い。

折も折、この頃の樽野の読書は、十年のプレトンを出でて、アリストートルの“Meta”に一歩を踏み入れたところであつた。彼は、時の隔りを忘れて、熟読に没頭する歴史の愛好家であつた。彼が始めて「混沌時代」の扉を開いて、次々の哲学者の門をラマンチアのドン・キホーテ的情熱で振り仰ぎながらプレトンに至るまで十年の旅路であつた。この勢ひで計算すると、彼の歴史研究は彼が百歳にならないと、近世の思想には達し得ないわけであつた。

十年をかけてプラトンを読み、アリストテレスの『形而上学』にようやく足を踏み入れた樽野(ということはストア派と評されながら彼自身ストア主義には辿り着いていないわけですが)は、ドン・キホーテ的情熱でそれに立ち向かう。彼が表しているのはその情熱ばかりではなくその滑稽味でさえあるわけです。

 

少し歴史的文脈のなかで考えてみましょう。幻想的世界を描くことで牧野信一が行っているのは、プロレタリア文学の台頭に対する一つの応答であると言えます。しかしそれは単なる退行の素振りを示しているのではなく、それに追随できない自らの夢想的な惨めさを諧謔とともに描き出すことで、その敗北を逆説的に浮かびああらせるものであったわけです。実際、ストア的態度の困難の一端がこの短篇には現れているように思えます。より好戦的なストア主義ならばともかく(あるいは彼らにおいてさえ)、隠者的ストア主義は、基本的に「世界を変えるよりも、自らの心持ちを変えよ」という順応主義的な思想であり、自己の優位の保持と世界の変革の可能性をトレード・オフにしてしまうものです。変革というのは決してたやすいものではありませんからストア的態度は中々現実主義的ですらあるのですが、人々が街頭に立つ時代にあって、自分はそれに構わないままでいられるのかという問いは絶えず付きまとう。そしてペンを持つ芸術家(気質)の人間というのは、「帰着するところ大概ストア流」なのではないか? 殆ど前に進むことも後ろに進むこともできないがんじがらめのなかで、牧野信一は苦しんでいたのではないでしょうか。

 

作品のなかでは、それは時代のことというよりは母親の関係の問題として描かれています。債権者の追い立てが激しくなるにつれ、彼はストア的態度を貫徹させようとするのですが……

「我慢して仕事を始める――」樽野は、うつむいてゐる妻に云つた。「我慢? いや、それは取り消しだ。僕の想像では、追ひ立て! なんていふ場合ではなくて、吾々の家に、阿母さんが――しまつた、云ふまいと云つてゐながら自分がこれだ! 取り消し! ――僕は平気なんだよ、つまり――。何んな事件が起つたつて、平気だ! と思へば、平気ぢやないか、えゝ?」
などと樽野は、平気ばかりを繰り返してゐたが、肉体は平気の反対らしく、見る/\うちに血の気が失せて行つた。「あゝツ! 変だ/\、心持はこの通り平気なんだが――おや/\、煙草が手から落ちてしまつたぞ――いつもの発作が起つて来たらしい!」

何んな事件が起つたつて、平気だ! と思へば、平気ぢやないか」これはストア派の典型的なイメージに合致するものです。しかしながら、精神による肉体(情念)の統御を謳うストア派の理念に反して、ここでは肉体はどんどんと反逆の発作を起こして、彼を追い詰めてゆく。それから樽野が妻の助けを借りながら絶えず言葉を発しつづけることで精神を救おうとする態度は、あまりに滑稽であると同時に殆ど精神分析的な技法すら垣間見えるものです。

 

ここで強調したかったのは、自己の安寧を至上の追及課題とするがゆえに、ストイシズムは現実そのものに対する働きかけを行うことがないということです。より古代の原義に即したストイシズムにあってさえ、外界というものは、吟味の対象ではあれ、その克服は内面からなされるのであり、直接的行為によって変革されることはない。それゆえにこそ彼らは、奴隷であっても十分に自由でありうるということができたのです。

 

しかし現実が絶えず問いを突き付けてくるなかにあって、内心の平和をのみ求める態度は矛盾を来たしてこざるをえない。ストイシズムの(内心の)栄光と(現実の)悲惨は、ここにあると言えるのではないでしょうか。そして牧野信一は「村のストア派」のなかで、その矛盾をきわめて巧みに描いてみせているのだと思われます。

 

最後に、樽野の矛盾が最も極まっている場面を取り上げておきたいと思います。彼は自分が「思慮を欠き、判断を失つて、寝てゐるわけにも行かなくなると」部屋の隅に作った祭壇に跪き祈りをするというちょっと奇妙な習慣を持っています。そこには聖母像が飾ってあり、また月明りの宵には「ランプの祭り」という異国の旧習にならって、アポロに祈りをささげるということもしています。しかしアポロは母親から自分を救うようなことは言ってくれない。

 樽野のアポロは、樽野に、母のゐる市まちを去れ! とは云はなかつた。そして、同じ市に居て、母の老ひの日が来るのを待たなければならない、零落の杖をついて、汝の許に宿をもとめに来るであらう母を、待たなければならない――と告げた。
 初めてこの言託を耳にした時には彼は、厭で、厭で! Pax のマリアにとりすがつて、アポロの残虐を訴へたり、あて度もない雲水の旅に恋ひ焦れたりしたが、もと/\人情の善、悪に関はりのない手前勝手だけが樽野の感情なのであるから、いつの間にか白々しくなつて、
「居れと云はるゝならば――」と、何んな人々もさうである通りに、跪いて、恭々しく、絶対の命令に服した。

アポロは、母親のいる市街を去れとは言わず、ただ母が老い自らのもとに宿を求める日まで待っていよという神託を告げます。それを不満に思った彼は聖母マリアに上訴(?)しますが、聞き入れられない。結局彼は絶対の命令に服して、母親から逃れることを諦めてしまう。

 

この場面はなりふり構わぬものになってしまっている点で樽野の内心の苦境を直截に表していますが、それ以上に極まった矛盾は、母親から逃れようとして祈りを捧げる祭壇に、聖母マリアという母性を代表する像が置かれていることにあります。母親を嫌悪しながら母性への崇拝そのものを忘れることはできない。樽野の最大のアンビヴァレンスがここに現れているのではないでしょうか。そして彼は妻や友人らと転々としながら母親の磁場からは逃げられず、その牢獄のなかでストア派でありつづける。母性の檻から抜け出すことはできないでいるのです。

隠者のストア主義――牧野信一「村のストア派」(1)

前回前々回に少しだけ触れましたが、セネカの時代のストア派というのは中々にマッチョなところがあります。その最たるは彼がストイシズムの克己心を軍人のそれに喩えていることでしょう。勇敢な軍人が辺境に飛ばされればそれを不遇と捉え前線に置かれれば隊長が自分を寵愛しているのだと捉えるように、賢人は困難の最前線に置かれたときにこそ神が寵愛ゆえに自分を試練にかけているのだと知る。セネカの時代にはやはり武勲が市民の徳に不可欠なものでした。それゆえストイシズムには、少しばかり禅に似たところがあって、武人向きなところがあります。

 

とはいえ一方で、時代が降るにつれて外界や情念の大胆な吟味という性格は薄れ、そもそもそれら刺激から逃れる「無関心な」隠棲的道徳と受け取られることがあるのも事実。そこで今日は青空文庫から牧野信一村のストア派」(1928)を取り上げてみます。作家が自身の似像として描いている隠者的なストア派青年に注目することで、巧妙なユーモアとともに、隠者的なストイシズムの抱える苦境がそこに描き出されていることを明らかにしたいと思います。

 

図書カード:村のストア派

牧野信一(1896-1936)は非常にマイナーな作家で、僕も殆ど全く知りません。自然主義私小説の作風でデビューしますが、国木田独歩(1871-1908)、田山花袋(1872-1930)や島崎藤村(1872-1943)のような作家よりは一世代下に属しています。初期の小説では赤裸々に自己の周辺や酒癖を語っているようですが、とりわけ彼にとって重要なのは家族との関係――父への憧憬、母への憎悪――だったようです。幼いころから家族の折り合いは悪く、父親はそこから逃げるようにして渡米、信一は英語を学びながら父への憧憬を募らせます。帰国後も父は別居を続け、信一とは英語で会話していたというのですからちょっと歪んでいます。一方で母親に対しては強い憎しみを感じながら、その磁場から十分に逃れられないでいる。1924年には父も逝去して、母親に対する怨恨は強まるばかりでした。

 

牧野信一がとりわけ知られているのは、しかし、そうした時期を抜けたあと、1928年頃から数年にわたる、「ギリシア牧野」と呼ばれる時期によってです。既に時代は昭和で、自然主義文学からプロレタリア文学へと文壇の趨勢は移っており、牧野もまた作風の変化を余儀なくされました。しかし彼が遂げる変化はまったく反時代的なものに見えます。というのも、この時期の彼はとりわけ集中的にプラトンアリストテレスセルバンテスを読み、私小説的ではありながらも、それとは一線を画する幻想的な作風を自らのものとするのです。その草分けとなる作品が「村のストア派」でした。この短篇はすぐ読めてしまいますが、緻密に作られていて、細部を眺めるのにとても心地よいものです。

 

樽野という人物(学生は辞めたが作家であるらしい)に焦点をあてた本作には、やはり私小説的な風土が生きています。とりわけ母親については次のように描かれています。

「女」といふ哀れを傘にして良人の直接の怒りから逃れ、「母」といふ事実を循にして子等の口を閉し、徒らに子等の胸を「憂鬱症[ルビ:ブリウ・デビル]」の翼で覆はうとする母親こそ真にたゞ独りの罪人だと思つた。

母親こそ「真にたゞ独りの罪人」だと思う。作中にはこの憎しみの淵源そのものはあまり語られていませんが、非常に強い断罪であることは確かです。作中には直接現れてこない彼女の存在の磁場は、それでも樽野を追い詰め、追い込んでゆきます。母親から学資の援助を断たれた(実家の没落に原因があるようですが)樽野は、妻と友人と弟と一緒に蜜柑畑のある村に引っ越しているのですが、蜜柑畑を含む動産不動産でさえ、母とその差し金のGという男によってどんどんと差し押さえられてゆくのでした。

 

しかし彼はそうした困難を運命論的態度で受忍する。ここに、私小説的風土をギリシア的世界のなかに置き直す可能性が生じてくるのです*1。この運命論的態度がヘレニズム期ストア派の根幹にあることも既に見たとおりです。そして樽野は「村のストア派」として、たいへんな窮状にもかかわらず、ある意味で非常に暢気な人物として描かれている。冒頭の一節を読んでみましょう。

沢山な落葉が浮んでゐる泉水の傍で樽野は、籐椅子に凭つて日向ぼつこをしてゐた。彼は、あたりのことには関心なく何か楽し気な思ひ出にでも耽つてゐる者のやうに伸々と空を仰いでゐるが、何時の間にか眠り込んでしまつたのかも知れない、膝の上に伏せてあつた部厚な書物が音をたてゝ足許に滑り落ちても拾はうともしないから。書物は、もう少しで水の上に落ちかゝりさうなところで躑躅の小株につかえてゐた。そして、情熱的な読者の赤鉛筆で共鳴の傍線があちこちに誌しるしてある「抽象的観念の実在」――そんな項目の頁を微風に翻してゐた。

あたりのことには関心なく何か楽し気な思い出に」耽っているような樽野は、まったくの隠者的ストア主義者だと言えるでしょう。彼は自然主義作家のように自己の窮状を赤裸々に眺めようとすることなく、プロレタリア作家のように社会の窮状を克明に描き出そうとすることもなく、「抽象的観念の実在」について夢想しているのです。そこで彼の窮状の原因であるGでさえも、彼に作品を依頼したあとで、いささか侮った様子で樽野に次のように言います。

「いや、有りがたう、まあ一つゆつくり頼まう――それは兎も角君なんかの仕事は羨しいねえ、世の中の厭なことには眼も触れずに自分の考へだけを究めてゐられるんだからね、幸せだねえ。僕の考へに依ると芸術家の生活といふものは帰着するところ大概ストア流だと思ふが何うでせう? ――フ……!」

時代の趨勢を考えれば、この発言は少しアイロニカルです。プロレタリア作家たちならこの一節に激怒するか、単なるプチブルとして軽侮して済ませることでしょう。しかし樽野は文句ひとつ言わない。「一つ目小僧[ルビ:キクロオブス]」と踊り狂ったり「類人獣[ルビ:ケンタウル]」と組打ちをする夢を見、自分のオートバイのことをアレキサンドル大王の愛馬にあやかってBucephalusと呼び、30万円(当時の値段!)するプラネタリュウムを「安いと思わないか」と妻に言い、観想的な生活を送ろうとする樽野は、根っから現実遊離したストア派であるようにも思われます。

 

しかしながら、実際にはそうではない。次回は短篇をより詳細に見ていきながら、ストイシズムの困難について考えていきたいと思います。

*1:そもそも牧野の父母との関係は、反転したオイディプスを思わせます。オイディプス神話においては、父親を憎み母親を愛するということが運命づけられていましたが、ここでは父親は既に逝去していながら憧憬の対象に留まり、母親こそが「罪人」として、赦しがたく現れてくる。あるいは父親のアガメムノンを殺した姦婦である母親クリュタイムネストラを殺害する子オレステスを考えても良いかもしれません。しかし樽野はまったく無力で、彼女に何か復讐するなどということを考えられない。彼は自らに課された運命をそのままに享受せざるをえないので、運命に対する反抗(とその挫折)という英雄的契機を欠いています。

模範的であるということの擁護――セネカ「摂理について」を読む(2)

前回の議論をまとめておきます。セネカは「摂理について」のなかで、「なぜこの世界は正しいはずの神慮によって動いているにもかかわらず、最もその恵みを受けるべき善人たちにかぎって不幸に遭わねばならないのか?」という問いに答えようとしています。私たちは普段「この世界は正しいはずの神慮によって動いている」とは考えませんが、少なくとも問いかけの後半は誰もが抱くことのある嘆きでしょう。勧善懲悪式の「努力は必ず報われる」という思考は、ニヒリズムに陥らないために自然に身に着いているものです。そして正しいひと、罪のないひとが不幸な目に遭ったときには、この世に憤りを感じずにはいられないはずです。

 

この問いに対するセネカの答えは簡潔なものです。不幸は我々を試す試練であり、そのような不幸に心を動かされないことで、私たちは自らを高めることができる。倫理などで習う所謂「アパテイアの精神」というやつで、我々も見習いたいものです。しかしセネカにとって、そのような態度を採ることが可能なのは、結局のところ、問いかけの前半部分、すなわち外の世界は我々にとって悪意をもって接してくることはない、という確信があるからでした。前回も引用した重要な一節を再掲しましょう。

我々がすべてを勇気をもって耐えねばならないのは、我々がそう考えるように、何事も偶然には決して起こらず、論理に従って起こるからである。(V,7)

 この論理logos=神という理屈がストア派の根本主張であることは前回も見たとおりです。このロゴスが信じられない世界では、艱難辛苦に耐えることで何が得られるのかもぼやけてしまいます。そしてこの世界こそ、一般に「不条理の世界」と呼ばれているものであることが分かってくるはずです。不条理な世界においては、待ち受ける逆境の背後に、我々に対して好意を持ち、逆境の克服を期待している超越的存在を想定することができません。苦しみの果てに苦しみがあり、しかもそれが何の意図もなく起こったものだとすれば、どこに人間の尊厳があるのでしょうか。現代世界は、ストア派の重要な前提が失われてしまった世界なのです。

 

それでもなお、この苦しみに耐える態度を擁護することは可能でしょうか。セネカの言葉を手掛かりにしながら、時には彼から遠ざかりつつ、考えてみたいと思います。注目したいのは、セネカにとって、この善人、賢者たち、すなわち苦しみに耐える意志を持っている人々は、模範的人物として奨励されているということです。

なぜ苦境を被らねばならないのか? 他の人々に、同じ苦境を耐え忍ぶことを学ばせるためである。その者は、他の人々に模範(例)を与えるために生まれてきたのである。(VI,3)

苦しみに耐え忍ぶことによって模範的であるということ、これこそが賢人たちの生まれてきた理由であるとさえセネカは言っています。このあと擬人化された神性が読者に語り掛けることで本作品は結ばれますから、これは殆どセネカの結論と言ってもいいはずです。こう言い換えてみましょう。人間が生まれてくるのは人間のためであり、彼らは苦しみという絆(鎖)で結ばれている。ここには、超越的存在や、論理によって運行する世界といった考えは必要ないはずです。むしろ、まったく同じような苦しみを苦しんでいる者同士、この世界に存在していることを肯定するために、自分も他者もそれに耐え抜いている(耐え抜きうる)のだという事実が必要なのです。

 

この「模範的であること」は、セネカ自身の議論の立て方とも無関係ではありません。彼はギリシャ・ローマの哲学者として、やはり修辞学に長けていますから、議論をするためには例証が必要であることを知悉しています。

それ[運命]はムキウスに火の試練を与え、ファブリキウスに貧困の試練を与え、ルティリウスに亡命の試練を与え、レグルスに拷問の試練を与え、ソクラテスに毒の試練を与え、カトーに自死の試練を与える。偉大な模範にはいつも悪運が付いて回るのである。(III,4)

こうした例を褒め称えることで、セネカは、苦しみは決してひとを貶めるものではなく、むしろその逆境を耐え忍ぶ姿こそ、私たちに勇気を与えてくれるのだと考えています。この生きていくための模範という在り方は、今日でもなお、私たちにも受け入れられるものではないでしょうか?

 

もちろん、そこには多くの留保が必要になるはずです。たとえば、この模範的存在は、押し付けられるにはあまりにも暑苦しいものです。道徳の授業で私たちはたくさんの模範的な生き方(嘘をつかない、親切にする、迷惑をかけないetc...)を学びますが、それらは色あせてみえるばかりではなく、いささか欺瞞的にすら見えてしまいます。あるいは「俺を見習え!」と言ってくるような人間には、できるだけ近寄りたくないと思うことでしょう。あまりに理想的/偽善的な模範が押し付けられてきたばっかりに、模範という存在そのものに対する抵抗感が生まれてしまいます。

 

さらに、模範とそれに倣うひとの関係が、単なる再生産的な関係になってしまっては元も子もないでしょう。そういうひとはエピゴーネンと呼ばれます。ある成功者が登場したときに、たくさんのエピゴーネンが現れることで、その成功者に対する視線さえも自然と冷たいものになってしまう。このような情景は何度も繰り返されてきたものです。

 

しかし模範というものは、上から押し付けられなくても、下からべったりと同一化してゆかなくても、私たちの生活を取り巻く存在であるように思われます。「まねぶ(まねる)」ことが学びの起源にあるかぎり、何かを始めるときに先達としての模範を心に抱くことは必要不可欠であるように思われます。そして私たちはそのありふれた性格のゆえに、模範的存在が持っている重要な役割を見過ごしがちになっているように思います。しかし生きることを誰から学ぶのでしょうか、既に生きたひとたちからでなければ?

 

セネカの議論は、誰もがこの世の法則に苦しまねばならない、という深い諦念に支えられているように思われます。前回に見たように、創造者でさえもその法則の例外ではありません。キリスト教において神は地上の法則を断ち切る例外的存在ですが、キリストが血肉をもって苦しみ死ぬという事実には、セネカの議論と同じ傾向を見ることができると思います。だからこそキリストはひとりの模範であり、「キリストのまねび」ということがしばしば言われるのでしょう。

 

もし僕の生きる理由が、他人に対して模範を示し、彼らが苦しみに耐えることを助けることにあるのであれば、僕が生きていることは彼らが生きるための理由になるのであり、また既に別の人々が生きていたということによって僕も生かされてきたということになる。生きるということは殆ど連帯責任のようなもので、誰も特権的な模範的存在にならないまま、お互いがお互いを見倣っているかのようです

 

これは本質的に他人本位な考え方です。しかし自分が生きている理由を自分のなかに求めることは不可能なことのように思われますし、ましてや神のような超越的存在には求められないとあってみれば、他人とともに生きているという事実以外に、その理由を求めてみることなど可能なのでしょうか? とてもナイーヴなことを言っていることは承知していますが、セネカが言っていることもこれと必ずしも遠くないのではないかと思います。

 

しかしこの模範というものはどのようにして伝えられるのでしょうか。直接的な伝達によるものでないことは明らかです。それが満足に伝わることはありえません。そうではなく、時々に誰かの背面に感じ取ったりするなどして、私たちが勝手に自らにとっての範例的姿を読み取ってしまい、そこからそのひとのことを私淑してしまう事態が始まる。そのようなことの方がはるかに多いように思われます。あるいは文学というものも、そのような模範を示してくれる媒体に他ならないように思われます。

 

いまでは、ストア派から出発しながら、この模範的存在のなかに必ずしもストア派的でない意味を見出したいとさえ思います。しばしばひとは情念に敗れますし、文学に現れる人物は決して高潔なひとばかりではありません(むしろ稀少です)。しかしながら、その情念に向き合い生きてみたその記録は、いつでも胸を打ってやみませんし、それもまた一つの模範たりうるのです。

 

それゆえ僕は「模範的である」ということを擁護してみたいのです。それは僕が模範的な存在になりたいということではありません(いつか意図しないうちに誰かにとってそのような存在になることもありうるのかもしれませんが)。そうではなく、僕はごく多くの模範をこの世界のうちに見出したいと思っているのです。こうしてブログを書くことを始めたのも、その発見を綴るためだったのではないでしょうか。

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何故この世界に不幸は存在するのか――セネカ「摂理について」を読む(1)

辛いときにはストア派を読む。これは悪くない選択肢です。ストア派の論客として知られるのは、開祖のゼノンをはじめ、キケロセネカマルクス・アウレリウス帝あたりですが、この最後に挙げた哲人君主の著作『自省録』の岩波文庫版の訳者が高名な精神科医・神谷美恵子さんであることは偶然ではありません。彼らの著作のなかには、病める心を引き寄せるような何かが存在するのです。

 

御多分に漏れずやや傷心だった僕も、セネカ(紀元前27-紀元68年)を手に取り、ここにいくつか読後の記録を残す次第です。著作は「摂理について」、岩波文庫版では兼利琢也訳で改版されたものが『怒りについて・摂理について・賢者の恒心について』というタイトルのもと、2008年に出版されています。摂理とは如何にも時代がかった言い回しですが、そこで論じられているのはいつの時代にも普遍的な問いです。

 

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この作品は書簡形式になっており、ルキリウスという彼の弟子が投げかけた問いに答えるかたちで展開しています。その問いというのは、

もしこの世界が摂理によって動かされているのであれば、どうして善人がこれほど多く不幸な目に遭わなければならないのか?(I,1)

というものです。誰もが善人を自称するわけにはいきませんが、善人であっても悪人であっても、辛いことがあれば、どうして自分だけがこんなに辛い目に? と思ってしまうもの。私たちはこれをうまく受け入れることができるのでしょうか?

 

ルキリウスが提起しているのは、一言で言って、悪の存在の問題と呼べるでしょう。この問題が普遍的であることは先にも述べたように疑いを入れませんが、それが最も苛烈なかたちで現れてくるのは、一神教の世界、造物主の存在を想定する世界においてであると思われます。一人の神が世界のすべてを創造したならば、そしてそれゆえに万物は神の意図に沿って動くのであれば、どうして悪というものが存在するのか? この悪さえも神は望んだのか? あるいはそれが神の想定外のものであるとすると、神は万能ではないということなのか? キリスト教はこの問題に対して様々なかたちで答えていますが(神義論)、未だかつて僕は十分に納得したことがありません。

 

キリスト教ストア派は多くの点で異なっています。セネカの時代には、彼が家庭教師を務めていたネロ帝がキリスト教に対する迫害を行っていましたから、キリスト教は異端中の異端でした。しかしながら、両者には多くの点で共通する点があり、ストア派の概念がキリスト教の誕生に貢献した役割は決定的であると考えられています。ではストア派の、とりわけセネカの世界観はどのようなものだったのでしょうか。

 

ストア派は一般的に神の存在を認めますが、それが人格的な姿をとることはないとされています。それは汎神論的な神で、つまりは世界そのものに他なりません。そしてその世界とは、決定論的・運命論的な論理に基づいて動いています。

運命こそ我々の主であり、我々皆に公平な時間は、時の初めから定められている。ある原因から別の原因が生ずる。出来事は、それが公的なものであれ私的なものであれ、長大な連鎖を形成している。我々がすべてを勇気をもって耐えねばならないのは、我々がそう考えるように、何事も偶然には決して起こらず、論理に従って起こるからである。(V,7)

ところがセネカは、どちらかというと人格神的なビジョンを持っており、私たちが服従する運命を決定した神が存在すると考えている様子がうかがわれます。しかしながら、キリスト教と違っていてユニークなのは、その神でさえもこの世界の運動法則のなかに潔く服しているというところです。なんだか公平ですね。

宇宙と同じ運動のなかに運び去られることは大いなる慰めである。我々に生きて死ぬことを強いる力がどのようなものであるにしても、それは神々をも同じ必然性のうちに含みこんでいる。同じ不可逆な流れが、人間と神々を押し流すのである。この世界の創造者であり世界の主であるところの方でさえ、運命を書き込んだあとでは、自らもその運命に服従するのである。彼もつねに服従しており、たった一度しか命令することはなかったのである。(V,8)

さて、こうして神(神々)がいて、この世界は彼(ら)が定めた運命によって動いている。すなわちセネカは「摂理」の存在を認めているのであって、だからこそ弟子のルキリウスは、なぜ摂理が存在するにもかかわらず(神慮によって世界が動いているにもかかわらず)、ひとは(悪人ならともかくしばしば善人こそが)苦しみに遭わねばならないのか、と問うことができたのです。

 

セネカの答えはシンプルです。そうした苦難は、神性が私たちに与えた試練であり、それを乗り越えることによってその者の徳の高さが示されるのである、と。

よいか、神々があなたの魂を掻き立てるために送られた試練を恐れていてはならない。不幸とは美徳にとっての好機なのである。(IV,6)

この世界に存在する悪、逆境、不幸、その他諸々は、私たちが自らを高め、自らを知り、外界に対する隷従以上のものである人間らしさを証明するためのチャンスに他ならない。ストア派はこのように考えます。その人間らしさを証明するためには、この悪を平然と受け入れ、それを軽蔑してみせるのが第一です。運命的なものと格闘しようとするのではなく、それと調和してみせることで、試練に打ち克つ。快苦に流されない超然的な態度によって、賢人としての態度を示すこと、これこそがストア派の本懐です。

 

こうした考え方は、近代の幕開けにある思想家ルネ・デカルトにも受け継がれています。『方法序説』第三部で、彼は暫定的な道徳として四つの格率を挙げていますが、その三つめはストア派に対する暗示が込められています。

私の三つ目の格率は、運命よりも自分自身に打ち克ち、世界の秩序よりも私自身の欲望を変えるようにいつも努めるというものであった。[...] だが、告白しておくと、このような態度から物事をすべて眺めることに慣れるには、長い修練と何度も繰り返される瞑想が必要である。そして思うに、かつて、運命の帝国に服従しながら、苦しみや貧困にもかかわらず、神々とともにある幸福について語ることができた、あの哲学者たちの秘訣は、この点にこそあるのである。(『方法序説』第三部)

デカルトはさらに『情念論』において、やはりストア派の影響を受けつつ、情念と理性の働きについて検討しているわけです。ストア派について言えば、どれほど外界(身体もここでは含む)が決定論的に支配されているとしても、魂はそれに対して優位に立つことができる。あらゆる苦痛(快苦両方を含む)にもかかわらず、むしろそれゆえにこそ、それを耐え忍ぶ人間は自らの尊厳を示す、思うがままにならない状況に置かれたときこそ、人間は自らの真価を発揮するのです。こうした心身二元論的な考え方がプラトンのそれ(「肉体は魂の牢獄である」とする考え)を思わせることがあるにしても、ストア派心身二元論が心と身体を分離して良しとする考え方でないことは明らかです。彼がはっきりと述べているように、

逆境がなければ、勇気は枯れ果てる。(II, 4)

むしろこの逆境を支えにすることによってしか、人間の自由というものは現れてこないのです。

 

ストア派の考え方は、どうやら「自然に従って生きよ」というたぐいの教科書的寸言からは見えてこない、はるかにアクティヴな考え方を含んでいるようです。セネカは運命と人間との関係を多くのアナロジーによって説明していますが、この運命の厳格さを父親、軍曹、教授などに擬えています。どうやらだんだん、「圧倒的成長」を重んじるブラック企業社会にもふさわしい倫理のようにも思えてきますが……。

 

あらゆるものを逆境と見做してしまっては、どうもあまりに窮屈でギラギラしてしまいますが、私たちに訪れる艱難辛苦を、なんとか自分にとって良きものに変えてゆきたい。ストア派の哲学はそのような願いから生まれてきたものと言えそうです。さて、ストア派は困難を逆手に取る賢人的な在り方を、「模範」として提示します。この「模範的であること」について本当は書きたかったのですが、今日はのっけから長くなりすぎてしまったので、稿を改めてそのことに触れたいと思います。