「牧野さんの祭典によせて」「牧野さんの死」「オモチャ箱」--牧野信一と坂口安吾(3・終)

二か月ほど前、「風博士」と「勉強記」――牧野信一と坂口安吾(1)および「ピエロ伝道者」と「FARCEに就て」――牧野信一と坂口安吾(2)を書きながら、生を肯定する思想に触れたかったのです。

坂口安吾が生の肯定者であること、これはたとえば「堕落論」の読者にとっては自明のことだと思います。先日、新潮文庫版の『堕落論』を読んでいたところ、「生きる事は実に唯一の不思議である」という文句を含む段落に差し掛かって、何やら涙が出るほどでした。戦時中に美しく散華することや、清楚さを留めた少女のままに死ぬこと、そういった純粋主義を躊躇なく「美しい」と言いながら、なお、美の「後」=堕落を生きることを肯定する。その力強い文言に、どれほど助けられることでしょうか。安吾は戦後という「後」を生きるためにこの文章を綴りましたが、それにかぎらず「後」の時代を生きるものにとって、つまりは我々にとって、いまなお「堕落論」はシンプルでかつ説得力があります。

そういう安吾は、同時代のほかの作家に対する人物評を書かせると、各段にうまいという美点を持っています。とりわけ有名なのは、太宰治の死に寄せた「不良少年とキリスト」と、小林秀雄について書いた「教祖の文学」でしょう。太宰治はご存知のとおり、1948年に玉川上水でサッチャンと呼ばれていた女の子と入水自殺してしまう。それを悼む安吾の文は、愛情に満ちており、また、痛烈です。

人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。

一方、小林秀雄については、彼の生きているうちに書かれたものですが、一種批評の達人、文学の教祖の立場にまで成った小林が、型ばかり求め、生きた人間(つまり作家)に背を向けたと言って、批判しています。

文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるといふことは必ずしも行ふということでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉ぢこもつてゐてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ツ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚ずつはぎとつて行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌ひだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない。

いずれもはっきりとしているのは、彼が「生きる」ことを絶対において、その五十年そこらの生に、何をなしうるのかと考えたときに、「生きる時間を、生きぬく」、そういう決意でもって向き合っているということです。それゆえ、生きることを放棄したものに対して、彼は苛烈です。安吾と太宰は、無頼派といって、戦後すぐの文学の旗手となりましたから、「後」を一身に生きることにした彼にとって、それを放棄して死んでしまった太宰に対しては、許せないという思いもあったのではないかと思います。

 

さて、牧野信一。彼もまた、自殺をしてしまった。まだ戦前の、1936年のことです。安吾と牧野の初対面が32年のことですから、彼らの繋がりは五年かそこらしかなかったことになります。その間の経緯については、牧野さんの死という文章に詳しいですから、そちらを読んでくださればと思います。この時期彼は、小説が書けず、方々に転居し、家庭ではトラブルが絶えず、妻は家出し、牧野は独り生家の小田原に帰る。安吾との間にも、お互いの創作をめぐって諍いがあったらしく、三年近く付き合いの途切れていたのが、憂鬱の増せば増すだに、呼び出さざるを得ない。そういうせつない晩年だったということです。

牧野氏の「村のストア派」について「隠者のストア主義――牧野信一「村のストア派」(1)」と「ストイシズムの栄光と悲惨――牧野信一「村のストア派」を読む(2)」で書いたとき、大まかに描かれた図式は、内面的な空想の世界と、現実の峻厳さとのギャップが、作家のユーモアの基調になっている、ということでした。ストア派的な内面の自由が、身悶えしながら崩れてゆく、その過程こそがユーモラスに描かれていく。その意味で、牧野信一という作家は、空想の一時的な栄華を誇りつつも、現実に対する敗北を受け入れる準備を整えている、そのような作家であると受け取ったのでした。その意味で、彼の自殺というのは、そのあらかじめ予定されていた、現実に対する敗北の到来に他ならないと理解していたのです。

そのあとで坂口安吾について書いたのは、牧野信一と対比するかたちで、安吾が、現実と空想という二項対立を突き破り、空想的世界、欲望の表現であるような世界を、そのまま一個の現実として肯定して、分け隔てない、そのような作家として、牧野と一線を画するのではないかと考えたからです。そのどちらが秀でているという話ではないにせよ、牧野にとっては敗北でしかない現実が、安吾にとっては夢の一つの姿でしかない、そこに牧野が死に、安吾が生きる、大きな選択の違いというものがあったのではないかと思います。

では、安吾は、牧野信一の死についてどう言っていたか。そのことでもって、この二人の作家を並べて考えてみることの締め括りにしたいと思います。

 

 死の直後に書かれた文章に、「牧野さんの祭典によせて」と「牧野さんの死」(いずれも36年)があります。前者は瞬発的に書かれたごく短い文で、後者はそれをもう少し敷衍したもの。いずれも趣旨に変わりはなく、人生と夢を二つ並べたうえで、彼の死は、人生が夢を殺したというものではなく、「夢が人生を殺したのである」と、そう述べてあります。

牧野さんは人生を夢に変へた作家である。彼の最大の夢は文学であり、我々にとつて人生と呼ばれるものが彼にとつては文学の従者となり、そのための特殊の設計を受けなければならなくなる。彼自身はいつぱし人生を生きてゐた気で、実は彼の文学を生き、特殊の設計を受けた人生をしかも自らは気附かずして生きてゐた。彼の自殺すら、自らは気附かざる「自己の文学」に「復帰」した使徒の行為であつたのだらう。

これを読み、少しぼくは驚きました。空想=夢、現実=人生とすると、ぼくが書いたことと反対の意見を安吾は言う。ぼくは、空想のなかでの短い栄華の終りに、人生が彼を予定通りに片付けてしまったという風に考えましたが、安吾は、このような終焉こそが、牧野が文学に求めた祭典の完結であると考える。それはむしろ、文学の勝利なのである、と。

しかし、よくよく考えてみると、これは必ずしも異なったことを言っているのではないかもしれません。現実に対する空想の敗北を予言のように見越しているということは、現実をすでに空想の一部としてプログラムしているということに他なりません。そのかぎりでは、空想の敗北は、空想自らに巧まれたものとして、空想の最終的な勝利をこそ、証立てているのかもしれない。

しかしぼくは、そう言ってしまうことに抵抗があります。私小説の作家が、人生を作品(夢)にかたどって作り出してゆくというのは確からしいかもしれません。けれども、死は死で、しょっぱいものであって、それを「明るい自殺よ。彼の自殺は祭典であつた」と言ってしまうのは、違うのではないか。

 

死後十年以上経った1947年、安吾牧野信一の死を小説にします。三枝庄吉というのが牧野信一で、栗栖按吉というのが(自伝的作品「勉強記」でも用いられていた)安吾です。それは「オモチャ箱」というタイトルの作品になりました。これは、とても素晴らしい。愛し・かつ・苛烈であります。

死後の追悼文が、牧野の死を文学の祭典としてポジティヴに捉えようとしていたのに対して、「オモチャ箱」では、彼の作品の変遷を見据えながら、自らの文学観も露わに、対決しているという感が強い。

この小説は、牧野の伝記、作家としての来歴を語るようなものになっています。庄吉=牧野は確かに夢や願望を描いた作家でした。「彼の小説の主人公はいつも彼自身である。彼は自分の生活をかく。然し現実の彼の生活ではなくて、かうなつて欲しい、かうなら良からうといふ小説を書く。」しかしそれはまったく現実と切り離された夢想空想なのではありません。作家が現実を見通す目を、安吾は「鬼の目」と呼びます。そして牧野の夢想は、あくまで「地べた(=現実)に密着した鬼の目」を失わないままになされていたのでした。少なくともその最良の時期には。

ところが、その現実から目を逸らせて、自分で自分の過去の作品を讃嘆し模倣するようになれば、それはもはや「作品と現実との根柢的のバラバラ事件」である。

安吾はそれを許しえなかったと言えましょう。彼にとっては、夢は現実の一部です。

人間自身の存在が「現実」であるならば、現に其の人間によつて生み出される空想が、単に、形が無いからと言つて、なんで「現実」でないことがある。

と「FARCEに就て」のなかで言っていたように。ただただ現実から逃れることを選んだ夢想は、現実を「軽蔑黙殺」しようとするけれども、現実は否定しようとして仕切れるものではない。その結果が、妻の遁走であり、自身の神経衰弱であり、その果ての自殺であるとすれば、そこに「明るい自殺」など見れようもない。十年を挟んで、安吾牧野信一の死について、考えを改めたと言うべきです。

 

そしてその考えを改める切っ掛けになったであろうのが、牧野が遺した奥さんのことです。彼女は結局、メカケか売春婦か、そういう身分に身を落としてしまって、非常に零落した生を送ったと言います。

彼の鬼の目はそれぐらゐのことはチャンと見ぬいてゐた筈なのだが、彼は自分の女房は別のもの、女房は別もの、たゞ一人の女、彼のみぞ知る魂の女、そんなふうな埒もない夢想的見解にとらはれ、彼が死んでしまへば、女房なんて、メカケになるか売春婦になるか、大事な現実の根元を忘れ果てゝしまつてゐたのだ。
 庄吉よ、現にあなたの女房はさうなつてゐるのだ。

没後十年を経てのこの糾弾、とても重い。それは妻に対する裏切りであり、妻が愛した文学に対する裏切りでした。文学は、夢想であるがゆえに、現実を見つめるものでなければならない。この両者を、対立したものではなく跨ぎ超えてゆくところに安吾の文学の精髄があったとすれば、彼はその先駆者を牧野信一のなかに見出していたようなのです。

あなたの文学が、あなたの夢が、あなたのオモチャ箱が、この現実を冷酷に見つめて、そこに根を下して、育ち出発することを、なぜ忘れたのですか。現実は常にかく冷酷無慙であるけれども、そこからも、夢は育ち、オモチャ箱はつくれるものだ

 現実の冷酷無比を見、そこから逃れる夢想を育み、なお現実を見失わず、その矛盾をこそ人間と受け止める。安吾という作家の生の力は、この肯定の力にこそありました。そしてだからこそ、夢想から現実の根を失わせ、現実に起きた、そして起きるであろう悲惨から目を逸らした牧野に対しては、どうして、なぜ、と、やるせない叫びをあげずにいられなかったのです。

 

最後に、牧野信一が33年に書いた「「学生警鐘」と風」という小品だけ挙げておきたいと思います。

夜通しで風が吹きすさぶ日々、八度六分の熱に倒れた作家は、よしなしごとを回想しています。そのなかで彼は一人の知友を想う。風博士です。

僕の知友に、風博士といふ男がゐる。いつも、あかちやけた髪の毛をばさばさと額に垂して、太い太いステツキを突き、ひよろりとして、大いに威張り、歩き振りと云つたらまつたく風に乗つたやうな大胯で、その速いの何のといつて孫悟空のやうだ。

もちろん、安吾の31年のデビュー作「風博士」を指しています。安吾その人について書いているというよりは、その作品の登場人物である博士をいたく気に入り、自らの作品のなかにも登場させたのでしょう。このとき、安吾と牧野の関係は良好だったのか? そのことは分かりませんが、三年後にも牧野が世を去ることを思えば、その戯れも、ひどく寂しい思いがします。

風博士が、風が吹かないで困惑してゐる格構をおもふと、定めしイライラとして書斎の中を歩きまはつてゐるであらうと、お気の毒になつて、せめてこの窓からの景色なりとも写真にとつて送つてやりたいと思ふのだが、生憎く僕は風を映す手腕に恵まれてゐないのだ。荒唐無稽の中からじやうだんを創ることの焦噪は、凡そ無稽ではない命かぎりの研究であらう。

風博士は風を大事にしますから、今日この日の風を彼のもとに送ってやれれば、定めし喜ぶことに違いない。牧野はそのように考えてひとりで愉しんでいる。そして、「荒唐無稽の中からじやうだんを創る」とは何か。それはファルスの本懐であり、安吾と牧野に共通する、芸術創造のただなかの焦燥です。現実という荒唐無稽を目にして、そこから冗談(夢想)を作り上げるという作業、それは両者どちらかを捨てるのではなしに、現実からオモチャ箱を作るということに他ならないと、ぼくは思います。

そしてその作業自体は、決して無稽なものではなく、「命かぎりの研究」であった。牧野は、やはり敗れたのだと思います。人生に、そして芸術に。その研究に。そして命を散らした。しかしながら、彼の仕事は遺った。それは非常に良い仕事だったように思います。